元炭坑夫が描き続けた筑豊のヤマ―ユネスコ「世界記憶遺産」1000点の絵画

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   元炭坑夫が描いた炭鉱画や日記がこの5月(2011年)、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界記憶遺産」に登録された。炭坑の過酷な労働や坑夫の暮らしを描き続けたのは福岡県飯塚市出身の山本作兵衛(1892~1984年)だった。地元の福岡では有名だが、全国的にはあまり知られていない。

独学で学び63歳で描き始めた山本作兵衛

   世界記憶遺産は人類の歴史を記録した文書や絵画、音楽などの貴重な資料の保存と公開を目的に、ユネスコが1992年にスタートさせた世界的なプロジェクトだ。これまでに「アンネの日記」やイギリスの「マグナ・カルタ」、フランスの「人権宣言」などが指定されていて、登録件数は238件となっている。

   キャスターの国谷裕子は「山本は失われてゆく炭坑の記録を、炭坑夫の仕事ぶりや生活など1000点以上の絵画で描き続けました。彼が絵を描き始めたのは60歳を過ぎてからのことでした」と紹介した。

   山本は明治25年、福岡県笠松村(現飯塚市)に生まれ、7歳のころから父や兄とともに福岡県・筑豊の炭鉱に入り、半世紀以上働き続けた。62歳の時に炭坑夫を退職。炭坑の警備員として働き出した63歳のときから絵を描き始めた。絵画を誰かに学んだわけではなく、まったくの独学だった。

   山本が絵を描き始めたのは、石炭産業にかげりが見え始めた昭和30年代。自ら体験した炭坑の様子や炭坑夫の暮らしぶりを絵画や文章で記録したいと絵筆をとった。「孫たちにヤマの生活や作業や人情を残しておこうと思い立った」からだと生前に語っていた。

   国谷は登録の経緯と背景をこう解説する。

「ユネスコは2年がかりで山本の作品を審査しました。そして、コレクティブ・メモリー、人類が共有すべき記憶として記憶遺産に登録することを決めました。明治から昭和にかけての日本の産業革命、炭鉱から生産された石炭が日本経済躍進の原動力となり、世界にも例を見ないことだと評価されています」

   番組で山本の作品がいくつか紹介された。採掘された石炭を選り分ける選炭婦の絵では、モデルとなった渡邊延子さんが「炭坑はお母さんの懐のようだった」と話し、50年以上経った当時の作業着を羽織って見せた。

五木寛之「画期的なこと。記録ではなく、記憶画」

   筑豊の炭鉱を舞台とした小説「青春の門」を世に送った小説家の五木寛之がゲスト出演した。

「今回の登録は画期的なことだと思います。山本の名前は福岡の人には馴染んでいるが、全国的には無名です。その人が一躍世界中に知られるようになった」

   国谷は「炭鉱から離れがたいとする人もいれば、2度と行きたくないという人もいます。この落差をどう考えればいいのでしょうか」と聞く。五木は「炭鉱は地獄だという人もいるし、炭鉱は故郷だったという人もいます。どちらにしろ、アジアの奇跡と呼ばれた日本の驚異的な経済成長を炭鉱が支えた。その労働現場での様々な光景を山本さんの作品は伝えています」とかたり、「山本さんの絵は記録ではなく、記憶画です。私たちが後生に伝えなければならない日本の文化がくっきりと描かれています」と結んだ。

   五木は歴史を語るときに大切なのは、俯瞰した記録ではなく、人々に刻み込まれた記憶だとかねてから語っている。

NHKクローズアップ現代(2011年7月28日放送「炭坑(ヤマ)が『世界の記憶』になった」)

ナオジン

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