黒澤明「伝説」思い出させた女優とプロデューサーとの喧々諤々

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   気がつけば午前3時半。グラスが次々に空き、灰皿には山のようにタバコの残骸。2人で呑みほしたのは、スパークリングワインボトルにビール、焼酎ロック、ウーロンハイそれぞれ2杯ずつ。そして呑めない1人は、コーラにお茶、カフェオレ、ジャスミンティー、白湯3杯。確実に酔っ払っているんだろうけど、ベロベロでもない。意外にしらふに近い状態の知人のプロデューサーと私、げらげら笑いしゅんと落ち込み、お酒は一切飲んでいないのにまるで泥酔しているような女優。

「おはよう」「やぁ」「あなたってステキだわ」めぐって4時間

   呑み始めてから4時間。話していたのはある戯曲のたった3つの台詞について。「おはよう」「やぁ」「あなたってステキだわ」のこれだけ。時間を費やしたのは、行間の読み方で、何気ないこの台詞の言い方を巡って、登場人物たちの関係性、台詞の裏にある腹心、時間の流れ方、続いていくドラマの展開をどう暗示させていくか、考えることは山ほどあった。何度も何度も、「おはよう」「やぁ」を繰り返す。「今のはちょっと違った、甘え過ぎた言い方だ」「なんか違うなぁ、もっとけだるい感じがいいんじゃない」「やっぱり少し突き離して現実に引き戻す感じの『おはよう』なんじゃないかなぁ」。しっくりくる「おはよう」がなかなか出てこずに、夜はふけていくばかり。次第にどれが一番よかったのかわからなくなり、一同しばし黙り込む。

「世界のクロサワ」からダメ出し40回でついにブチ切れた大物俳優

   そう言えば、黒沢明監督に何度も何度もダメ出しをされた大物俳優さんの話を思い出した。たったひと言の台詞を言うのに、監督からNGを出されること40回近くなった時、最後に監督が言ったのは「18回目のテイクで行こう。アレでやってくれ」。言われた俳優はすでにどんな言い回しだったか覚えておらず、ブチ切れて、以後、黒沢作品には出演しなかったとかいう話だ。自分の責任で全ての作業がストップしてしまい、そのたびにチャリンチャリンとお金が落ちて行く音が聞こえてくる。ひと言にOKが出ないことで生まれるプレッシャーは相当なものだったに違いない。その後、映画界では笑えるようで笑えない話として言い継がれるようになった。

とりつかれたように芝居に没頭していく大人たち

   俳優や劇団員が長時間喧々諤々芝居について語り合うのは、昔から変わらない。なぜそこまで語り合い、時にケンカにまで発展するのか、これまでわからなかった。けれど、その意味に少しだけ触れた気がする出来事だった。

   お金儲けのためではない、やればやるほど貧乏になっていく、だけど芝居はやめられない。舞台に立ち続けたい。芝居のために人生を変え、財産を使い果たし、それは家庭を壊すこともしばしば。でも、何かとりつかれたように芝居に没頭していく大人たち。

   ひるがえって、それほど自分は仕事に打ちこんだことってあったけ。恥ずかしながら、すぐさまイエスと答えられない自分がいる。頑張ってやっていればいいというのとは違う。自分を捧げてまで取り組んでいるか。商売とはまた違う次元の心意気をどれだけ持てるか。仕事とはちょっと違うけれど、なにかそこまで夢中になっているものがあるか。何度も何度も同じ台詞を言い続ける女優と、ダメ出しをしているプロデューサーを横目で見ながら、トロンとした頭で少し反省してしまった夜だった。

モジョっこ

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