2024年 3月 28日 (木)

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「僕はたった一人だ 僕は僕と戦うんだ 僕を知らない 僕がいる」

   これは若者のカリスマといわれた歌手・尾崎豊が死ぬ4か月前にノートに書いた『太陽の詩』の歌詞の一節である。

   尾崎が26歳という若さで急逝したのは1992年4月25日。没後20年になる今年(2012年)、50冊を超える彼のノートやメモ類を、音楽プロデューサー・須藤晃が活字に起こした本『NOTES 僕を知らない僕 1981-1992』が新潮社から出版される。そのパブとして、今週の「週刊新潮」が取り上げている。

これが尾崎豊人気か…凄さ実感した20年近く前のある企画

   新潮に尾崎豊? 違和感を感じるが、尾崎も生きていれば46歳になるのだから、ファンも新潮読者の下限ぐらいには入るのだろう。私にも尾崎の思い出がある。といっても彼の歌や生き方に共鳴していたわけではない。尾崎の葬儀は私がいた講談社のすぐ近くにある護国寺で行われ、参列者は4万人近くに上ったそうだが、私はその人の波を見ていない。

   彼が亡くなって2年過ぎた頃だった。「週刊現代」編集長だった私は、売り物になる特集がなくて頭を抱えていた。そこに若い編集部員から、尾崎豊の三回忌という特集をやらないかと持ちかけられた。現代の読者は尾崎豊に関心はないと思ったが、他に何もないため、苦肉の策で最終的には右トップへもっていった。

   発売直後、駅の売店で現代が飛ぶように売れていると販売から連絡があった。それも普段は現代など手にとることのない女子高生が買っているというのだ。その号は完売して、改めて尾崎豊の人気の凄さを実感した。

   自分とは自由とは愛とは何かを問いかけ続け、ニューヨークへ渡り、帰国後に覚せい剤取締法違反で逮捕されるが、出所後『街路樹』や『誕生』で復活を果たす。その数年後、足立区千住の民家の軒先に傷だらけで全裸で倒れていたところを発見されるが、その後死亡する。

   尾崎の早すぎる死は、20歳で自殺した大学生・高野悦子の遺著『二十歳の原点』と同じように、時代を超えて、孤独な若者たちの心をとらえて離さないのであろう。

元木昌彦プロフィール
1945年11月24日生まれ/1990年11月「FRIDAY」編集長/1992年11月から97年まで「週刊現代」編集長/1999年インターネット・マガジン「Web現代」創刊編集長/2007年2月から2008年6月まで市民参加型メディア「オーマイニュース日本版」(現オーマイライフ)で、編集長、代表取締役社長を務める
現在(2008年10月)、「元木オフィス」を主宰して「編集者の学校」を各地で開催。編集プロデュース。

【著書】
編著「編集者の学校」(講談社)/「週刊誌編集長」(展望社)/「孤独死ゼロの町づくり」(ダイヤモンド社)/「裁判傍聴マガジン」(イーストプレス)/「競馬必勝放浪記」(祥伝社新書)ほか

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