2024年 4月 24日 (水)

1969年「東大安田講堂」機動隊導入で文部省と「密約」…45年ぶり教授会執行部の新資料

   45年前の東大紛争は、機動隊の導入によってその後の大学自治を変容させ、入試も中止になった。大学執行部は何を考えていたのか。それを示す資料が見つかった。学生側の記録は多いが、大学側のものは初めてである。

   紛争の発端は医学部だった。閉鎖的な体質の改革を求める学生を処分し、抗議した学生排除に機動隊を導入したため、動きは全学に拡大した。学生に大学院生、助手らまでが同調して、「大学とは何か」「大学自治とは」「学問とは」という大論争になった。

話し合い解決閉ざした大御所・南原繁の圧力「まだ機動隊入れないのか」

   全国の大学で学園紛争が起こり、高度成長の矛盾や大学のあり方を問うていた。東大紛争はその象徴として、他大学からの学生、活動家が加わって、ついに安田講堂の占拠に至る。

   大学は事態収拾のため、加藤一郎・総長代行(法学部教授)を中心に、新たな執行部を選んだ。いずれも若手の選りすぐりだ。今回見つかった記録は、事件後に執行部が残した証言(座談会)で、原稿用紙600枚に及ぶ。10年前に亡くなった植村泰忠・理学部教授(当時)が残していた。

   記録の大半は1969年1月18日の安田講堂への機動隊導入に至る経緯につてである。執行部ははじめ学生との対話による解決を考えていた。大内力・経済学部教授は「大人の論理ですり抜けようとして問題をもつれさせた。子どもの論理かもしれないが、学生の次元まで立ち戻ったほうがいい」と語っていた。

   大学は対話集会を開き医学部処分の撤回など譲歩もした。しかし、事態は好転せず。南原繁・元総長らの重圧もあった。戦後を代表する知識人だが、「秩序維持」を主張していた。

   大内「毎朝のように南原先生から電話で『まだ(機動隊を)入れないのか』とずいぶんやられた」

加藤総長代行「政府とケンカしても自信がない。文部省が入試ノーなら止めざるを得ない」

   もうひとつの難題が入試だった。ある意味、機動隊問題より切実だった。

   加藤「入試はできるだけやらなければいかぬ。(学生への)説得がきかなければ、おおそうじ(機動隊導入)もと考えた」

   記録には、加藤が当時の坂田道太文相と接触して、秘かに了解を得ていたとある。共通の知人だったピアニストの室井摩耶子さん(92)宅だった。 かくて、執行部は機動隊導入に傾いて行く。あくまでも入試を行うためだ。しかし、安田講堂の学生が排除された1月18日、文部省幹部は執行部に入試の中止を迫った。

   大内「政府・与党の反対が非常に強くて、入試を復活させることは絶望だと(文部省が)いうのです」

   執行部は入試中止に追い込まれた。ただ一人、坂本義和・法学部教授(当時)が「なぜ入試中止を受け入れたのか」とただしていた。「入試をやるかやらないかは、大学が決める性質のものじゃないか。自治能力がないことを大学自身が認めるようなことだ」

   加藤はこう答えた。「本当にみんながやる気があれば、『権限はこっちにある』という方法もあった。だけれども、政府とケンカしてやった場合に自信がない。文部省がノーなら止めざるを得ないという実質判断があった」

   いま病床にある坂本氏は「入試は文部省に指図されることではなかったはず」と語る。さらに「学生の一部は『高度経済成長は何のためだ』『なぜ大学で学ぶんだ』と問いかけていました。私たちはろくな答えを持っていなかった。彼らの問いかけは、現代でも絶えず問われなくてはいけない問題なんです」

   麗沢大の松本健一教授は「いまの学生は(大学に行くのは)自己実現のためでしょうが、明治の学生なら社会への奉仕と答えたでしょう」という。

   国谷裕子は「いまそういう学生いませんね」と言う。坂本氏のいう「現代でも問われるべき問題」とは、永遠の命題だ。

ヤンヤン

NHKクローズアップ現代(2013年1月30日放送「東大紛争秘録~45年目の真実~」)

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