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佐村河内「代理作曲ギャラ」小品20~30万円。18万枚ヒット「HIROSHIMA」200万円

   聴力を失いながら作曲を続け、「現代のベートーベン」といわれた佐村河内守氏(50)の作品に関する疑惑で、きょう6日(2014年2月)発売の『週刊文春』(2月13日号)が詳細な経緯を伝えていた。実際に曲を書いていたのは桐朋学園大学音楽学部非常勤講師の作曲家・新垣隆氏(43)で、2人の関係を「天才的な大バカコンビ」と笑っていたという。

ゴーストライター「彼は楽譜に弱いのではなく、楽譜がまったく書けない」

   新垣氏はきのう報道機関あてに「お騒がせしまして申し訳ございません。私は佐村河内守のゴーストライターを18年間にわたってやっておりました」という短いコメントを出した。

   『週刊文春』の記事の執筆者・神山典士氏によると、新垣氏は2人の関係を「コンセプトを作ることにかけては、佐村河内氏は長けている。0を1にする能力は認めざるを得ない。1を100にする曲を完成する能力では自分が長けている」といっていたという。

   2人の出会いは1996年。佐村河内が映画音楽の作曲を新垣氏に依頼したのが始まりだった。佐村河内は当時33歳で、まだ耳が聞こえていたことになる。「将来、必ず引き上げるから、しばらく協力してほしい」と持ちかけ、以来ゴーストライターが18年間続いた。

   新垣氏は「佐村河内は楽譜に弱いのではなく、楽譜がまったく書けない。正式なクラシックの勉強をした形跡もない」と話している。では、どうやっていたかというと、「指示書という紙を渡していた」。指示書は図形と文字だけで音符はまったくない。曲想の進行(時間)を追って、台形のような形が描かれている。台形の大小、濃淡は音の強度、緩急などを表し、文字では「祈り」「啓示」「受難」「混沌」など抽象的な言葉や「宗教音楽の技法のすべてを現代語法で」などとある。作曲の報酬は小さな作品だと20万円とか30万円。18万枚を売った「交響曲第1番HIROSHIMA」は200万円と破格だった。

芝居っ気たっぷりに「作曲の苦悶」を演技

   佐村河内は曲の売り込みを行っていた。問題はこの先だ。広島生まれ、被爆2世と35歳で聴力を失ったことを売りに、講演では「大きな闇を背負って生きてきました」「音が降りてき始めました」「闇の中の小さな光」などと話し、自伝では作曲の苦しさを「完成を目前にしながら悶絶する日々を送らねばなりませんでした。…発汗や嘔吐を伴う硬直の後、激しい全身痙攣が起こり、気絶してしまうことも…。ほとんど例外なく失禁しており、鼻からもたびたび出血していました」と書いていた。新垣氏はこれを「全体的にウソだらけですが、とくに幼少期のピアノレッスンの部分は、私が話した自分の体験そのままでした」という。

   『新潮45』(2013年11月号)は「全聾の天才作曲家 佐村河内守は本物か」という記事を載せていた。「ふだんは頭痛その他で臥せっているはずが、NHK番組や演奏会ではいつもお元気」といった内容だった。この記事をきっかけに、新垣氏はコンビの解消を申し入れると、佐村河内から「だまし続けた悪しき18年間の真実を洗いざらい遺書として配り、夫婦で自害しお詫びしようと思います」というメールが来た。自殺をほのめかしながら、今後も曲づくりを迫った。新垣氏はいったんは受け入れたものの、結局、告発に 踏み切ったという。

   司会の小倉智昭「30半ばで耳が聞こえなくなったというんですが、最近のおしゃべりを聞いていると大変上手ですよね」

   木下康太郎アナ「なぜ共同ではいけなかったのでしょうかね。富と名声なのか、このあたりがわからないですね」

   小倉「あの指示書なら、音楽が多少わかる人なら書けるが、交響曲にする方が絶対大変です」

   中江有里(俳優)「プロデュースするような感覚だったんですかね」

   菊川怜キャスター「あの曲で癒された人もいたのに…」

   小倉「ボクなんかそうですよ」