2022年 6月 26日 (日)

野田秀樹「哀愁でいと」、宮沢りえ「UFO」…失意のときに自分を励ました大切な曲

人気店や企業から非公開の招待状をもらおう!レポハピ会員登録
(C)NHK
(C)NHK

   共に演劇の世界の第一線で戦い続けてきた野田秀樹と宮沢りえが「人生の大切な10曲」を持ち寄って語り合う。

   1955年、長崎県の炭鉱の島で生まれた野田秀樹は生まれてすぐに東京に引っ越した、幼に心に刻まれた曲は坂本九の歌う「見上げてごらん夜の星を」だった。「この曲を聞くと、父親との会話がよみがえる」と話す。

   1973年、東京でオランダ人の父親と日本人の母親との間に生まれた宮沢りえは生まれてすぐ両親の離婚を経験する。母親とも別居せざるを得ず、心の奥に寂しさを抱えていた彼女だが、おば一家の愛情に支えられて活発な少女に成長する。そんな時期に出会ったのがピンク・レディーの「UFO」だった。

   名門進学校である東京教育大学付属駒場高等学校へ入学した野田はひょんなきっかけで演劇部に入部する。高2にして処女作「アイと死を見つめて」を執筆、上演した。そして高3の時、初めて芝居で使う音楽として選んだのがダニエル・リカーリの「ふたりの天使」だった。

   宮沢は10歳でモデルの仕事を始め、ようやく母親との二人暮らしが実現する。幸せな生活の記憶を呼び起こすのは母と二人暮らしの部屋で流れていたモーツァルトの「交響曲第40番」だ。

   高校卒業後、東京大学に入学し劇団「夢の遊眠社」を立ち上げた野田は奔放な言葉遊びと疾走感あふれる演技で注目され、「日本演劇界をけん引する、時代の寵児」と呼ばれる。ロンドンの芸術祭に招待され、海外進出も果たした。しかし33歳の時、運動中突然右目を失明する。大きな試練に見舞われた時に流れていた曲が田原俊彦の「哀愁でいと」。野田はこの出来事を通じ、「悲劇性と喜劇性は紙一重」という思いを新たにする。

   宮沢は14歳で出演したCMで大ブレイク、芸能界の階段を駆け上がっていく中で当時のアイドルとしては考えられなかったセンセーショナルな作品を次々発表する。特に写真集「Santa Fe」は「国民的事件」とまで言われた。その後、私生活で大きな出来事が連続し、ロスへの移住を決意する。その頃の彼女に力を与えたのが井上陽水の「帰れない二人」。この曲に支えられて「自分はやはり、表現をすることが好きなのだ」と再確認した宮沢は東京へ戻る。

ミュージック・ポートレイト「宮沢りえ×野田秀樹 第1夜」

今すぐ無料会員に登録して、コメントを書き込もう!
姉妹サイト

注目情報

PR
追悼
J-CASTニュースをフォローして
最新情報をチェック
電子書籍 フジ三太郎とサトウサンペイ 好評発売中