沖縄「平和の礎」名前のない220人「○○の妻、長男、次男、長女」一家全滅、戸籍消失、記憶も薄れ・・・

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   沖縄・糸満市の平和祈念公園にある「平和の礎(いしじ)」には、沖縄戦で亡くなった24万人余りの名前が、家族単位で刻まれている。だが、なかに名前のない人が220人もある。なぜか。熾烈な地上戦のためばかりではなく、戦後の沖縄の状況も深く影を落としていた。

   これら無名の戦没者の出身地はいくつかの市町村に集中している。いちばん多いのは本島中部の西原町の49人だ。外間良義さん一家5人の名があるが、良義さん以外は「妻、長男、次男、長女」とだけだ。一家を知る人はいた。しかし、だれも家族の名前までは覚えていなかった。

   良義さんは裕福なサトウキビ農家で、瓦屋根のハイカラな屋敷に住んでいたという。西原村(当時)は日本軍の司令部があった首里に隣接していて、日米軍激突の最前線になった。1か月の攻防で村は焼け野原になり、村民の戦没率は46.9%(実に2人に1人)、一家全滅が476世帯もあった。良義さんの屋敷跡は70年経ったいまも空き地のまま。同様の空き地がいくつもある。

   遠い親戚の外間芳勝さん(55)宅に一家の位牌があった。「父から預かった」という。位牌には妻の名が「ナベ」とあった。しかし子どもたちは「童子」「童女」とだけだ。

出産直後、名前付けられる間もなく爆死した赤子!「城間栄昌の四男」

   「礎」ができたのは20年前。沖縄県が行った初の大規模調査だった。沖縄戦では、どのように死んだのか、さらに遺体すらわからない人が多いうえ、戸籍も失われていた。米軍基地も障害になった。かつて住んでいた土地は基地のフェンスの中で、住民は県内外に散って戦後50年が経っていたのだ。

   18人が無名の北谷町はいま嘉手納基地の中にある。下勢頭地区には780人が住んでいた。調査をしてみると、住民は21市町村に散っていた。ひとり一人訪ね回ったが2人は確認ができなかった。

   名前を持つこともないまま亡くなった赤子もいた。西原町の城間栄昌さん一家5人は、1人だけ「栄昌の四男」と名がない。生き残った次男の英徳さん(75)は5歳だった。父は招集されていて、英徳さんは母ヨシさんと2歳の三郎さんと近くの墓穴に身を隠した。ヨシさんはそこで四男を出産した。

   「ただ、よしよしというだけで、何ちゃんということはなかった」と英徳さんはいう。母子は米軍に追われて南部に逃げ、空き家にいたところを米軍の砲撃を受けた。状況もわからず英徳さんは逃げた。「母も弟も赤ん坊もどうなったかわからなかった」。戦後になって親戚から聞かされた。ヨシさんがかばった四男はまだ生きていたと。

   英徳さんは「だれも赤ん坊を助けなかった。死んだのならあきらめられる。なんで...」と言葉を詰まらせた。「栄昌の四男」と刻んだのは、「そうしないと、生まれたという存在もなくなってしまう」「(刻めば)指で触ることもできる。やっと気が軽くなった」

刻銘者最も多い「0~3歳児」10人に1人!胎内で死亡「昭和0年0月0日」

   「平和の礎」の意味を、北村毅・大阪大大学院准教授は「沖縄戦では多くが家族はバラバラ。別々に死んでいって、状況も遺骨も定かでない。それが1か所に刻まれている。死者が形になっている唯一の場所なんですね。沖縄の戦後が凝縮された存在です」という。

   戦没者でいちばん多いのが0歳から3歳で、彫銘者の10人に1人になるそうだ。胎内で母親と一緒に死んで「昭和0年0月0日」という記載もあったと北村氏はいう。こんな形で民間人を戦火に巻き込んだ愚を、70年経ったいまも沖縄県民は忘れてはいない。普天間問題もその表れだ。「平和の礎」はこれからも 語り続けるだろう。

ヤンヤン

NHKクローズアップ現代(2015年6月18日放送「シリーズ戦後70年 礎(いしじ)に刻まれた沖縄戦~『名もなき犠牲者』は何を語るのか~」)

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