2024年 4月 18日 (木)

山口瞳さすが連載コラムの手練れ!「戦後はアメリカの妾の世話やく宦官の時代」

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   暑い! 茹で蛸状態だからか、各週刊誌とも小粒な記事が多い。そこで私の独断と偏見でいくつか選んでみたのでご覧あれ。

   『週刊新潮』ではすでに鬼籍に入ってしまった山口瞳と山本夏彦の名物連載「男性自身」「夏彦の写真コラム」から選んだ数本を掲載している。改めて読んでみたが、二人の視点や話の運びのうまさ、夏彦の時代を切り裂く鋭い文章にはいまさらながら恐れ入るしかない。

   少し不満が残るのは山口の「卑怯者の弁」が入っていないことだ。週刊新潮編集部と少し考え方が違うからだろうか。この文章は清水幾太郎が月刊誌『諸君』(昭和55年10月号)に「節操と無節操」を寄稿し、このように書いたことへの反論である。

「国家というものをギリギリの本質まで煮詰めれば、どうしても軍事力ということになる。ところが、その軍事力の保持が、日本の徹底的弱体化を目指して、アメリカが日本に課した『日本国憲法』第九条によって禁じられて来たのである。日本は『国家』であってはならなかった」

   戦中派である山口は「国家=軍事力」という箇所に「理屈ではないところの生理的な反撥が生じてくる」とする。そして清水の文章に、戦時中によく聞いた「臭い」を感じるのだ。

   そして、「戦後という時代は、私には宦官の時代であるように思われるのである。アメリカが旦那であって日本国はその妾であり、日本の男たちは宦官であって、妾の廻りをウロウロしていて妾だけを飾り立てることだけを考えている存在であるように思われた」と書いているが、この構図は現在も変わっていない。

   清水が「戦争のできない国家は国家ではない」と規定することに対して、「戦争することの出来る国家だけが国家であるならば、もう国家であることはゴメンだ」と切り捨てる。国家を代表するものは日本政府、日本政府とはすなわち自民党のことである「自民党を操る者は田中角栄である。田中角栄のために命を捨てろと言われても、私は嫌だ。私は従わない」

   田中を安倍に置き換えれば、今でも立派な安倍批判になる。

   清水が、日本が侵略されるということは、敵兵による略奪が行われ、妻や娘たちが暴行されることだとしていることにも、「ああ、聞いた聞いた。(中略)あの時の声とそっくり同じである。(中略)こういうのがデマゴギーということになる」と厳しく断じている。

   大岡昇平の「俘虜記」を引用しながら、山口はこう覚悟する。「撃つよりは撃たれる側に回ろう、命をかけるとすればそこのところだと思うようになったのは事実である。具体的に言えば、徴兵制度に反対するという立場である」

   日本ペンクラブの「電子文藝館編纂室」に全文が載っている。ぜひ読んでいただきたい。

又吉直樹読んでみた!心配になるあの暗さ・・・太宰治を気取っているだけならいいが

   今週も各誌、又吉直樹の特集を組んでいる。「火花」をとりあえず読んでみようとアマゾンを覗いてみると、8月3日(2015年)まで入荷しないというので、kindle版を入手して読み始めた。書き出しの数行で、この男ただものではないかもしれないと思った。

<大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。熱海湾に面した沿道は白昼の激しい日差しの名残を夜気で溶かし、浴衣姿の男女や家族連れの草履に踏ませながら賑わっている。
   沿道の脇にある小さな空間に、裏返しされた黄色いビニールケースがいくつか並べられ、その上にベニヤ板を数枚重ねただけの簡易な舞台の上で、僕達は花火大会の会場を目指して歩いて行く人たちに向けて漫才を披露していた>

   書き出しにこそ神は宿る。売れない漫才師が花火大会の余興に呼ばれ、粗末な台の上で漫才らしきものを大声でやるが、花火に急ぐ人たちは足を止めてくれない。芸人とその世界が抱える不条理。これから描かれるであろう売れない芸人の悲哀と破局を予感させる。

   又吉の分身である徳永と、彼が漫才師として尊敬する先輩・神谷との関係を中心に話は展開する。四六時中芸のことを考えているのに売れない芸人のやり切れなさや、相方との行き違いなどのエピソードを織り交ぜながら、全体を貫いているのは、「全身漫才師」として生きようとする神谷の苦悩と狂気である。

   又吉の考える「漫才論」もそこここに散りばめられている。たとえばこういう箇所がある。<必要がないことを長い時間をかけてやり続けることは怖いだろう?

   一度しかない人生において、結果が全く出ないかもしれないことに挑戦するのは怖いだろう。

   無駄なことを排除するということは、危険を回避することだ。

   臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者だけが漫才師になれるのだ>

   だが、読み終わった読後感は残念ながら満足感とは遠いものであった。売れない芸人としての悲哀も、神谷の狂気も、私にはさほどのものとは思えなかったからだ。それに、徳永や神谷の「芸」が私には少しもおかしくなかった。これでは漫才師としては売れないだろうな、そう思わざるを得なかった。

   本を読んだあとYouTubeで「ピース」のコントを何本か見てみたが、クスリとも笑えなかった。もっとも、私にとっての漫才は横山やすし、西川きよしで終わっているから、わからない私のほうが悪いのかもしれない。

   海援隊の武田鉄矢をもう少し暗くしたような又吉の顔は、すでに作家の顔である。太宰が好きで、太宰忌(桜桃忌)には毎年、追悼の「大宰ナイト」をやっているそうだから、気分も生き方もすでにして作家なのであろう。

   又吉の作家としての力を測るには、これから書かれる作品を待つしかないが、気になるのはあの若さで抱え込んでいる闇の深さのようなものである。太宰は38歳で玉川上水に身を投げた。私が好きだった落語家・桂枝雀(享年66)は舞台で見せる破天荒な明るさの裏に狂気を垣間見せていたが、突然、自死してしまった。又吉の持つ暗さが、太宰を気取っているだけならいいのだが。

元木昌彦プロフィール
1945年11月24日生まれ/1990年11月「FRIDAY」編集長/1992年11月から97年まで「週刊現代」編集長/1999年インターネット・マガジン「Web現代」創刊編集長/2007年2月から2008年6月まで市民参加型メディア「オーマイニュース日本版」(現オーマイライフ)で、編集長、代表取締役社長を務める
現在(2008年10月)、「元木オフィス」を主宰して「編集者の学校」を各地で開催。編集プロデュース。

【著書】
編著「編集者の学校」(講談社)/「週刊誌編集長」(展望社)/「孤独死ゼロの町づくり」(ダイヤモンド社)/「裁判傍聴マガジン」(イーストプレス)/「競馬必勝放浪記」(祥伝社新書)ほか

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