原節子「片目が見えないのよ」突然引退は白内障のため?アップ多く目に強いライト!
今週の『週刊文春』と『週刊新潮』は原節子一色である。9月5日(2015年)、昭和の大女優・原節子(本名・会田昌江)は敬愛した小津安二郎監督が屋敷を構えた鎌倉の地で静かに息を引き取った。享年95。
週刊文春によれば、肺炎が悪化し、神奈川県内の病院に運ばれたのは8月中旬のことだった。ただ、入院当初は彼女の病状は親族の間でも楽観視されていたという。50年以上にわたって原と同居していた甥の熊谷久昭氏がこう語っている。
<「看取ったのは私を入れて五人ほどでした。生前、元気な頃に遺書を書くと言っていたのですが、結局残さずに逝ってしまいました。私にとっては贅沢を許してくれない、うるさい叔母さんという感じでしたね」>
原は大正9年、横浜市で二男五女の末っ子として生まれた。週刊新潮によれば、女学生時代には教育家になろうと考えたり、英文学をやろうと思ったりしていたと原は自叙伝の中で述べている。
原の父親は日本橋で衣類関係の問屋を営んでいて、恵まれた幼少期を送ったかに見えるが、親しい友人たちによれば、そうでもなかったようだ。<「お母さんがかわいそうな人でね。関東大震災の際、沸騰した鍋を頭からかぶってしまったのです。近所で『小町』と言われるほどきれいな人だったのに」>
さらに、1929年の世界恐慌で生糸の価格が暴落して家が傾き、<「昌江ちゃんはいつも同じ服ばかり着る『着たきり雀』になった。卒業後は、横浜高等女学校に進んだのですが、家計を助けるため、2年で中退してしまったんです」>
義兄で映画監督の熊谷久虎氏の推薦を受け日活撮影所に入社する。その後、引退までの28年間で、小津安二郎監督などの作品を含む112本に上る映画に出演した。華やかな映画スターとして一時代を築いた原だが、引退後は一転、映画関係者との接触をすべて断ってしまった。
突然の引退の理由はさまざまにいわれている。真っ先に上がるのが実兄で映画カメラマンの会田吉男の事故死である。昭和28年、映画「白魚」の撮影中、会田はカメラを持ったまま機関車にはねられ命を落とすのだ。
だが、こうした見方もある。ある日、撮影所で原が岡田茉莉子に衝撃的な話を打ち明けたという。<「『今朝、鏡に向かったら、片方の目が見えないのよ』とおっしゃるのです。昔は、フィルムの感度が悪かったので、眼にライトを強く当てないと、綺麗に映らなかったのです。特に原さんはクローズアップの表情が美しかったですから、他の女優よりもライトを多く浴びていたと思います。
また引退の二年前に公開された『秋日和』の撮影中には、『畳の上での芝居がしづらくなってきたので、もうやめたいの』と弱気におっしゃられたのです。その原因が眼の病気かどうかわかりません。ただ小津さんの映画は畳の上での演技が多いことは間違いありませんものね」>
甥の久昭氏も引退の原因は白内障によるものだと考えているようだ。
質素だった鎌倉隠遁生活・・・毎日缶ビール1本。ちょっと株やって、国際情勢や温暖化に関心
引退後の準備は万全だったという。何しろ週刊新潮によれば、1951年、公務員の初任給が6500円にすぎなかった時、原の出演料は映画1本あたり300万円を超えたそうだ。「そのたびに、都内の狛江や練馬、杉並などの土地を購入したそうです」と映画評論家の白井佳夫氏は語っている。原が芸能界を去って31年を経た1994年のことだ。
<「国税庁が発表した前年度の高額納税者75位に、原の本名、會田昌江の名が載りました。納税額は3億7800万円で、所得総額は13億円近かったはず。隠遁する前まで住んでいた東京都狛江市の800坪余りの土地を、電力中央研究所に売却したんです」(古手の記者)>
だが、彼女の隠遁生活は質素を極めていたと久昭氏が週刊文春で話している。<「もちろん彼女が1人で食べていく分には困りませんでした。八十代の頃までは、うちの車で葉山のあたりに一緒に買い物に行くことはありましたが、主に食材とか日用品を買うだけで、洋服は買わなかったですね」>
タバコは初老の頃に止めたそうだが、お酒は90歳を過ぎても毎日たしなんでいたという。<「小さい缶ビールを一日一本飲んでいましたね」(久昭氏)>
意外といっては失礼だが、テレビを見るより本が好きで、それも社会問題に関する本を読んでいたという。<「経済問題や、イスラム国などの国際情勢や地球温暖化問題などにも興味をもっていた」>と久昭氏がいっている。
週刊新潮では、日経の経済面なんかを特によく目を通していて、株をちょっとやっていたそうである。<「詳しくは知りませんが、損したり儲けたり、だったのだと思います」(久昭氏)>
親の猛反対で原節子と泣く泣く別れたベルリン五輪陸上選手
永遠の処女といわれる原節子だから女優時代はスキャンダルとは無縁だったが、男性の影はあったのではないかという指摘は多くある。よくいわれるのは小津監督との関係である。小津の妹・山下トクは、生前、2人の関係をこう述懐していたという。
「私は、おそらく兄は、原さんのことが好きだったと思います。ただ、兄は仕事と私生活を切り離して考えようとしていました。あれだけの大女優を個人で所有するものではないと割り切ろうとしていたんじゃないでしょうか」(『文芸春秋』1989年9月号)
その他にも、東宝のプロデューサーだった藤本真澄や、驚くことに義兄であり映画監督の熊谷久虎氏の名前も挙がっている。原を取材しているノンフィクション作家の石井妙子氏がこう解説する。<原節子と熊谷久虎氏は二人だけで生活した時期もあり、久虎氏が亡くなるまで、その傍らから離れることはなかった。(中略)男女関係があったかは噂の域を出ませんが、強固な精神的な結びつきがあったのは間違いありません>
週刊新潮にはこのような話も載っている。2004年に89歳で物故した矢澤正雄さんは陸上短距離の代表選手としてベルリン五輪に出場し、帰国直後の36年秋、日独合作映画「新しき土」の撮影でドイツに渡る前の16歳の原節子と出会った。よく落ち合って餅菓子を食べに行ったりしていたと矢澤氏は語っていたという。だが、順調だった2人の交際も戦争の波にのみ込まれる。
戦地へ行っても文通は続けていた2人だが、43年、無事復員した矢澤さんは、「本当に生きていてくれてよかった」という原の歓待に、「なにをおいても彼女と一緒になろう」と決心したという。だが、厳格な父に「ああいう華やかな仕事をしてる人は、お前のためにならない」と大反対され、7年に及んだ恋愛は潰えたという。
藤本真澄とはこんな話がある。昭和20年代、下北沢にあった「マコト」という喫茶店でアルバイトをしていた藤井哲雄さんが(85)こう証言する。<「ある日ママに、『明日は藤本先生が来るから2階の部屋をよく掃除しておいて』と言われました。すると翌日の昼下がり、のちに東宝映画社長になる映画プロデューサーの藤本真澄さんが、後から原節子さんが現れたんです。それから1年ほど、月に1、2回は従業員に暇が出され、建物が2人に提供されていました」>
永遠の処女は恋多き女でもあったようである。
私は原節子の映画の中では「晩春」(1949年)が好きだ。原節子は笠智衆が演じる大学教授の娘。母親を早く亡くし、父の面倒見てるいるうちに「お嫁行きたくない。お父さんと一緒にいるほうが幸せ」だと、「疑似近親相姦的」(白井佳夫氏)絆ができてしまう。婚期に遅れた娘を嫁がせるために、父親は再婚するふりをして娘を結婚させるという物語である。結婚式を終えて、家に帰ってきた笠智衆がひとりでぽつんとお茶を飲むシーンが印象的である。
「週刊文春」恒例ミステリーベストテン!国内は「王様とサーカス」、海外は「悲しみのイレーヌ」
週刊文春恒例の「国内海外ミステリーベスト10 2015」を少し紹介しておこう。国内の第1位は「王とサーカス」(米澤穂信・東京創元社)。第2位は「流」(東山彰良・講談社)。第3位は「戦場のコックたち」(深緑野分・東京創元社)。第4位が「ミステリー・アリーナ」(深水黎一郎・原書房)。第5位が「鍵の掛かった男」(有栖川有栖・幻冬舎)だ。
海外は第1位が「悲しみのイレーヌ」(ピエール・ルメートル・文春文庫)。第2位は「スキン・コレクター」(ジェフリー・ディーヴァー・文藝春秋)。第3位が「ありふれた祈り」(ウィリアム・ケント・クルーガー・ハヤカワ・ポケット・ミステリ)。第4位が「声」(アーナルデュル・インドリダソン・東京創元社)。第5位は「偽りの楽園」(トム・ロブ・スミス・新潮文庫)である。
私がこの中で読んだのは、「悲しみのイレーヌ」「ありふれた祈り」、7位に入っている88歳の元殺人課の刑事が主人公の「もう過去はいらない」(ダニエル・フリードマン・創元推理文庫)、「流」ぐらいである。
その中でお薦めは「もう過去はいらない」。先日、北方謙三氏にも勧めておいたが、格好いいハードボイルドの傑作だと思う。