2024年 4月 20日 (土)

「震災で得たものも大きい」子どもたちもあれから7年・・・3・11体験して人生が始まった

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   東日本大震災の直後、子どもたちが気持ちを綴った「つなみ」という作文集がある。宮城県と岩手県の80人が、ジャーナリストの森健さんの呼びかけに応えて書いた。そのうち40人が7年目の気持ちを語った。

   宮城・石巻で小学5年生だった廣瀬迅人くんは、家族は無事だったが、家は全壊した。その時の様子を彼は淡々と書いた。「車から出れなくて、たすけをもとめている人が見えました」「はじめて見た物は、たくさんの死体でした」

   いま18歳。2年前にできた災害公営住宅に家族6人で暮らす。中学校に入った頃、モノや人に八つ当たりしてしまったという。以前に暮らしていた仮設住宅の壁には大きな穴が空いていた。母の亜耶子さんは「(感情を)消化できなかったのかな」と話す。しかし、5年後に迅人くんはこう書いていた。「この震災で、好きで死んでいったやつなんかいない。だからおれ、死んだ友だちの分までしっかり生きていきたい」

   中学を卒業して、祖父と同じ調査捕鯨の船乗りになった。半年間は海の上。毎朝3時に起きて食事を作り、先輩を手伝う。「いまこういうことやってるんだよって、(友だちに)普通に言える」

「教師になれば、町の記憶や被災体験を次の世代に語り伝えることができる」

   宮城・名取市閖上地区で小学6年だった橋浦優香さんは「生まれ育った閖上がこんなにも変わってしまって悲しいです。早く閖上が前みたいにもどってほしいなと思いました」と書いた。いま大学1年生の19歳。「もどってほしい」という願いは変わっていない。近所付き合いの盛んな温もりのある地区だった。ただ、復興のかさ上げ工事で思い出は消えつつある。「景色が変わってしまって、思い出せなくて悔しいというか、悲しい」

   教師になるという。「教師になれば、町の記憶や被災体験を次の世代に語り伝えることができる」。記憶継承のボランティアにも参加している。「震災を経験した自分にしかできないことがたくさんあると思って」

   岩手・大槌町は10メートルを超える津波に襲われた。小学3年だった柏崎功真くんはこう書いた。「自分の家を見に行って、なにもなかったです。そしてぼくが『夢だったらいいなあ』と言いました」。6年間は仮設で暮らした。現実は「夢」にはならなかった。去年(2017年)、大槌町を離れて内陸の一関の高校へ進んだ。別の夢、フットサルの選手になるため、県内トップの社会人チームに入っている。

   フットサルは、復興支援に来た人たちに教わった。いま16歳になって、震災で失ったものより、震災で得たものの大きさを感じているという。「震災の前と後じゃなくて、震災後しか記憶がなくて、そこから人生が始まったって感じですね」

重松清「7年生きてきたからこそ言える言葉」

   キャスターの武田真一と田中泉が、震災遺構として保存されている仙台市立荒浜小学校から中継した。「知り合いの死にまだ向き会えていない」(石巻の佐藤未夢さん・当時小6)、「海は怖い。が、海を嫌いになれない」と海産物販売で働く気仙沼の斉藤日向子さん(当時中2)、「津波に流されない家を作る」と高校の建築科へ進んだ清野大樹くん(当時小4・石巻)、「自分も人を助けたい」と看護学校へ進んだ柏崎楓さん(当時中1・釜石)、「津波の怖さが伝わらないのがもどかしい」(東松島の杉浦遥さん・当時小3)、「今も生きていることに、ありがとう」(石巻の石川幸奈さん・当時小3)など、さまざまな7年後の声があった。

   震災以来、取材を続けている作家の重松清さんは「作文を書いてよかったですか」と呼びかけた。LINEで「よかったです」という声が続々と入った。「何がよかった?」と聞くと、「震災と向き合えた」「知ってもらえた」「当時の気持ちを形に残せた」「かわいそうだけじゃなくなった」「生きていることが奇跡」「ここまでやってきたよ、と伝えたい」と返ってきた。

   重松さんは「7年生きたからこそ言える言葉ですよね」という。

   かくて話は収まった。だが、何かが足らない。震災のもう一つの舞台、福島がないのだ。津波に加え、原発にも追われた子どもたちの7年はどうなのか。その声をぜひとも聞きたい。

   *NHKクローズアップ現代+(2018年3月8日放送「大震災をつづった子どもたち それぞれの7年」)

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