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東日本大震災から8年 「なぜ救えなかった!」目の前で祖父母を失った女性、故郷に帰る決断までを追った

   東日本大震災の発生から8年。この間、被災地にあるふるさとにずっと帰れずにきた女性がいる。心の中にあったのは、あの日一緒に避難し亡くなった祖父母のこと。震災後上京し東京で働く中でも、なぜ救えなかったかと自らを責め続けてきた。その女性が震災8年を前に、ふるさとに帰る決断をした。ずっと抱え続けてきた思いとどう向き合ったのか。1人の女性の姿を通して、震災8年を見つめる。

   東日本大震災の発生から8年――。避難先の小学校体育館を襲った津波に、目の前で祖父母をさらわれた女性の8年間を取材した。故郷・宮城県東松島市を離れて働いていても、あの時のショックと罪悪感から7年11か月の間、自宅に戻れなかった女性は、今ようやく帰郷して一歩を踏み出した。

祖母は逃げ遅れた祖父の元に戻り、還らなかった

   2011年3月11日、16歳だった横田智美さん。祖父母、小学生だった妹と一緒に避難所になった野蒜(のびる)小学校にいたところを高さ10メートルの津波に襲ってきた。智美さんは妹と手をつなぎ、祖母かつ子さんの手をとってステージに上がろうとした。ところがかつ子さんは自分から手を離した。足が弱く逃げ遅れた祖父實さんのもとに駆け戻ったのだ。

   智美さんが「行ったら皆がダメになる」と踏みとどまったところへ黒い津波がなだれ込んだ。妹の体を懸命に引っ張り上げ、2人は奇跡的に助かった。しかし、祖父母は還らなかった。

   智美さんは高校卒業後に上京したが、「おじいちゃん、おばあちゃんが亡くなったのは自分のせい」との思いが消えず、ずっと故郷に帰れなくなった。「お父さんにあわせる顔がない」と、今でも涙まじりだ。

   理容院を営んでいた父浩さんと母浩子さんは「必ず迎えに行くから、おじいちゃん、おばあちゃんをよろしくね」と智美さんに声をかけて避難させていた。浩さんは「いちばん多感で大事な時に。心の片隅に傷があると思います」と語る。浩子さんも「つらかっただろう」と、あの時にかけた「よろしくね」の言葉が忘れられないと自分を責め続けた。

   理容院は震災4年後に再開、自宅も再建した。智美さんの部屋も用意した。ベッドには祖母手作りのベッドカバーが敷かれた。「帰るよといってはくるが、毎回ドタキャンになる。ひっかかっているなと思いました」と浩子さん。智美さんは上京以来、あの日の出来事をずっと胸にしまい続けていた。

津波に襲われた小学校体育館は、防災を学ぶ施設に

   毎年3月11日に智美さんは思いをつづってきた。「あれから5年、つい最近みたい。もっと頑張らなきゃ」「きょうで6年、3月が来ると怖くなる。忘れちゃいけないのに、思い出したくない」「きょうで7年、頑張る。頑張らなないと」

   去年(2018年)8月、転機があった。父と母が東京に会いに来た。智美さんは胸に詰まった思いがあふれて泣いた。そして、今年(2019年)1月下旬、「逃げるのをやめよう」と故郷に帰る決心をした。「ただいま」と声をかけて家に入り、仏壇に手を合わせた。どこにもある光景に大震災から8年の歳月がにじむ。「帰って来られなくてごめんね」「智ちゃんのせいじゃないから」

   野蒜小学校の体育館は取り壊され、校舎は防災を学ぶ施設に衣替えした。壁には当時の痕跡が刻まれ、津波が襲った午後4時をさす時計も残っている。

   いとうせいこう(作家)「生き残った人が罪悪感を持つことを、周りは忘れてはいけない。その気持ちを自分の中だけではなく、外に伝えないと、東北の人たちは忘れられたと思ってしまいます」

   武田真一キャスター「智美さんの思いは想像を絶するものがあります。私たちに何ができるだろうと思います」

   あれから8年、被災者一人ひとりのケースがさまざまなメディアで取り上げられている。機会あるごとに人々のケースを具体的に掘り起こす作業を行ない、そこに関心を持ち続けることが、必ず何かに通じるはずだと信じたい。

   ※NHKクローズアップ現代+(2019年3月11日放送「"初めて"の帰郷 ある被災者の震災8年」

   文・あっちゃん