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野村克也が語り尽くした最後のメッセージ「自分を貫けたのは劣等感があったから。努力は天才に勝る」

   11日(2020年2月)に84歳で亡くなった野村克也さんは、最後まで人生哲学を語り続けていた。プロ野球を代表する名選手、名監督がこの半年間、NHKの取材で託した「最後のメッセージ」があった。一つが「家族がいるから頑張れる。家族は生きる支えだよ」だった。妻・沙知代さんが死去して1年半たった去年(2019年)5月、野村さんは「女房がいなくなって、男の弱さがはじめてわかる」「男の弱さを痛切に感じる」ともらした。

   2人の出会いは、野村さんが南海ホークスの選手兼任監督だったころだ。負けてしょんぼり帰るとかけられた「元気出しな」「あした頑張りな」の励ましに助けられたという。「亡くなってからも存在を感じていて、どこかで背中を押してくれる。耳元で頑張りなという声が聞こえる」と、実感と愛情をこめて語った。

「とにかくやってみるのが一番だ。人生は分からない」

   「努力は天才に勝る」というのもある。自分を貫けたのは何なのかという問いに、野村さんは「劣等感」をあげた。だからこそ、努力で自分を支えてきたという。3歳の時、戦争で父を亡くし、病弱の母が女手一つで生活をたてた。中学時代の野球部の集合写真は、野村さん1人だけユニホームがなく、短パンにランニング姿だった。「いずれ母を楽にさせてあげたい」の一心で懸命にバットを振り続けた。

   18歳で南海ホークス(現ソフトバンクホークスの前身)の入団テストを受け、プロ野球選手になってからも、レギュラーをつかもうとひたすら練習し自分を追い込んでいった。「テスト生から一軍の例はないかもしれないけれど、実力の世界じゃないか」と、ここでも手がマメだらけになるまでバットを振り続けた。

   抑えられた投手の投球フォームを研究し続け、癖や配球を分析し、やがて1965年、プロ野球で戦後初の三冠王となった。「自分にどういう素質、才能があるか、やってみないとわからない。とにかくやってみるのが一番だ。人生は分からない」

「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上」

   現役引退後は4球団で監督を務めた。たどりついた言葉が「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とする」だ。人を育てることにこそ価値があるという意味だ。

    その育成手腕は野村マジックとよばれた。1999年の阪神監督の時、打撃不振の新庄剛志にピッチャーをやらせ、オープン戦で実際にマウンドに立たせた。「肩が強かったから。自分の素質と可能性に気づいてくれと考えた」そうだ。この年、打力を伸ばした新庄は主力選手として活躍する。

    2009年の楽天では、2カ月間、勝ちから遠ざかっていた田中将大投手をあえてアドバイスをせずに突き放す。「自分で乗り越える経験が必要だと思った。(人は)耐える、我慢できると一段と育つ。楽をしていい結果は得られない」「若い人には夢を持って生きろの一点だけでいいと思う」

悩み続けた「良い親父になれない」

   こんな野村さんでも最後まで悩んでいたのが、父親としてどうあるべきかだった。「良い親父になれずにきょうまできた」「どういう存在でいるべきかが想像できないんだ」

   息子で捕手だった克則さんを自分が監督をしていた球団(ヤクルト)で指導したが、目立った成績は残せなかった。野村監督が「ひいきしている」と批判されることもあった。克則さん本人も「ふたことめには野村の息子といわれ、つらかった。なんで普通に見てくれないのかと思ったことはある」と振り返る。

    その克則さんは今年、楽天の一軍コーチになって、「違った気持ちが芽生えた。人の痛みを知り、選手のために何ができるか考え続けろという父の言葉が支えで、背中の教えじゃないけど、存在感とはそういうことか」と思い始めたそうだ。

   武田真一キャスター「野村さんは愛にあふれた夫であり、父親であり、指導者だったんだと感じます」

   「こう生き抜くんだと教えていただいた」(元ヤクルト・古田敦也さん)、「野球界でみんながなんとなく知っていたことを整理してくれました」(栗山英樹・日本ハム監督)、「ノムさんの偉大な功績と野球への夢は生き続けるはずです」(長嶋茂雄氏)と、人と教えを残した人生だった。

   ※NHKクローズアップ現代+(2020年2月12日放送「密着半年 野村克也さん 最期のメッセージ」)