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日本で働く人々に最も人気のある経営者―丹羽宇一郎・伊藤忠商事会長

   丹羽宇一郎氏は日本で3番目に大きい商社、伊藤忠商事の会長である。その生き方と行動が多くの働く人々(主としてサラリーマンとオフィス・ウーマン)の共感を呼んでいる。今年2月に出版された著書『人は仕事で磨かれる』(文芸春秋刊)の売れ行きも好調である。人気の秘密は、何といっても、サラリーマン出身の社長とは思えないような明快な発言と、派手かつ勇気に富んだ行動だろう。社長時代、会長就任後も続ける電車通勤、業績不振の責任を取って給与全額返上…なんとも格好よく、人々の心の琴線に触れる行動が目立つ。

   できるだけ上司の言うことに従い、できるだけ目立たないように、しかも、効率的に働くという風習が行き渡っている日本の企業社会では、悪くすると、彼のような行動は人気取りを狙った噴飯物と受け取られ、自分の会社の社員からさえ嘲笑の的にされかねない。丹羽氏の場合、そうならなかったのは、一つ一つの行動に考え抜かれた根拠があり、見る側、聞く側に対して説得力があったからだろう。

社長時代も年間60冊本を読む

丹羽宇一郎・伊藤忠商事会長
丹羽宇一郎・伊藤忠商事会長
 

   丹羽氏は名古屋市内の「本屋さんの息子」として育った。その「特典」を生かして、少年時代から、いろいろのジャンルの本を読み漁った。学生時代や、伊藤忠商事入社後も、あまり忙しくない時は、年間150冊超、社長時代でも年間60冊を読破したという。どんな読み方をしたか知らないが、年間150冊とは並みの読書量ではない。1週間に3冊のペースである。半分がペーパーブックや小説だったとしても、一般の読書家サラリーマンの3倍以上のスピードで約60年間も本を読み続けてきたことになる。丹羽氏の持つ説得力は読書の積み重ねの中で醸し出されたものに違いない。
   勇気があって、派手に行動するタイプのサラリーマンは、往々にして、人生でも仕事でも、オーバーランしがちである。総合商社のような大組織の中では、出過ぎやり過ぎは厳しく批判される。当人は挫折し、最悪の場合、再起できないで、サラリーマン人生を棒に振る。性格的には、丹羽氏はこのタイプに属していたのではないか。にもかかわらず、人生も仕事も踏み外さなかったのは、やはり、読書から得た幅広い知識、豊かな常識、そして、何といっても、確固たる価値観を持っていたからだと思う。
   経営者としての丹羽氏は、日本の他の経営者と何処が、どう違うのだろうか。一般に、日本の企業経営者が欧米の経営者と異なる点は、大学卒業の直後に入った企業一筋に粉骨砕身の形で勤め上げ、トップに登り詰めるコースを辿ることである。とりわけ、欧米と違うのは、日本企業のサラリーマンは上層部と親密な人間関係をつくらない限り、トップの座に就くことはできない。人間関係が優先され、実力は二の次である。しかも、多くのトップは、自らが社長を退いてから後、よく面倒を見てくれる子飼い幹部を後継者に指名することが多い。
   丹羽氏も伊藤忠一筋だし、室伏稔・前会長らとは濃密な人間関係があったようだ。しかし、人間関係より実力を重視したことは、丹羽氏が社長就任直後、後継者選びの方針として、「スキップ・ワン・ジェネレーション」(後継社長は一世代後の幹部から選ぶ)を打ち出したことからわかる。このような方針を打ち出したら、他の大部分の大企業のように、気心の知れた子飼いを後継に選ぶわけにはいかない。また、丹羽氏は「社長は6年で辞める」「辞めたら、タダのおじさんに戻る」と宣言したが、これもトップとして異例なことである。どんな「タダのおじさん」になるのかわからないが、少なくとも、引退後、後継者に手厚く面倒を見させる気持のないことは確かだろう。

過去の経営者に遠慮しない「欧米流」

   日本経済において、90年代に、バブル崩壊後の構造不況が長期間続いた最大の原因は、90%以上の大企業が時代にマッチしたビジネスモデルを構築できなかったからである。それは社員の不勉強・能力不足のせいもあるが、実際には、企業のトップが、ビジネスモデルを大転換すると、過去の経営の失敗を白日の下にさらし、自分を引き上げてくれた先輩の顔に泥を塗るような結果を招くことを慮って、経営改革に消極的であったことが大きな要因になっている。
   欧米の先進国では、ある企業の経営者が経営に失敗した場合、主として社外取締役によって構成される取締役会が、社内外から有能な後継者を選び、新しいビジネスモデルを立ち上げて、経営を立て直すように要請することが圧倒的に多い。したがって、後継の経営者は過去の経営とはまったく無関係に行動できる。しかし、日本では、ある企業経営者が経営に失敗しても、彼が後継者を指名する権利を持ち続けている場合が多いので、後継者も過去のしがらみを排除した、新しい経営に乗り出すことは、非常に難しい。
   その点、丹羽氏の行動は欧米流だった。彼が社長として打ち出した「A&P戦略」(生活消費、資源、金融、宇宙情報の4分野に経営資源を集中する)や「ISI戦略」(食料、繊維などの事業を川上から川下まで垂直的に行う)には過去の経営者に対する遠慮は見られない。それは99年10月に発表して世間を驚かせた3950億円にのぼる特別損失処理にも当てはまる。処理の対象になったのは過去の経営陣がつくったバブルであり、彼らは丹羽氏の大ナタに強く抵抗したはずである。

社長時代も年間60冊本を読む
社長時代も年間60冊本を読む

    この他に、丹羽氏の行動で特筆すべきことが二つある。まず、社内の風通しを良くしたこと。この点では、フランスのルノーから派遣されて日産自動車のCEOに就任し、同社を再建したカルロス・ゴーン氏と似ている。もう一つは人材育成に力を注いだことである。部課長向けの「経営塾」、中堅社員向けの「青山クラブ」を開設し、その塾長と校長は丹羽氏自身が務めている。さらに、「クリーン、オネスト、ビューテフルたれ」の行動目標を掲げて社員に意識改革を迫ったことは、コーポレートガヴァナンスの確立と人材養成の上で非常に効果があったと思われる。

9年間の米国駐在の間に培われた行動方式

   丹羽氏の、他の日本の財界人とは大きく異なる考え方と行動方式は、彼の9年間にわたる米国駐在生活の間に培われたものが多い。彼は主として大豆の買い付けと日本への輸出を担当していたが、成功も失敗も経験した。彼は仕事で超多忙だったにもかかわらず、ニューヨークの書店で米国の書物を漁り、幅広い分野の多くの人々と豊かな人間関係を築いた。彼は、業務上の取引でも、個人的な付き合いでも、常に相手と真剣に切り結ぶことによって、外国人の考え方を理解し、彼自身の生き方の幅を広げた。
   丹羽氏は日本でも有数の優れた経営者であるが、財界を代表する日本経団連会長の椅子に就く可能性はない。伝統的に製造業が重んじられる財界での商社の地位は比較的低く、貿易業界でも、伊藤忠商事は三菱商事三井物産の後塵を拝しているからである。また、彼のブリリアントな個性が、没個性的な日本財界の中で受け入れられにくいという面もある。とはいえ、丹羽氏は日本経済界の独特の存在として、国内外でさまざまな実績を残し、経済人だけでなく、一般の人々からも注目され続けるだろう。

聞き手・インタビュアー: 早房長治