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松井秀喜氏とJALの「10年愛」継続中 苦境の「パートナー」に送ったメッセージ忘れない

   日米球界で活躍し、2012年シーズン限りで現役生活にピリオドを打った松井秀喜氏。先日、ニューヨーク・ヤンキースと1日契約を結んで引退セレモニーに臨んだことが話題を集めたが、2013年8月に入って日本に一時帰国した。

   松井氏は日米の往復の際、日本航空(JAL)を利用している。かつてJALとイメージキャラクター契約を結んでいたのが縁だが、単なるビジネスの関係を超えて両者は今も深いつながりで結ばれているようだ。

キャラクター契約終了後も乗り続ける

 松井氏がJALに贈ったメッセージ(画像提供:日本航空)
松井氏がJALに贈ったメッセージ(画像提供:日本航空)

   松井氏がヤンキースに移籍してプレーを始めたのは2003年シーズンだが、それに先立つ2002年12月24日、JALが松井氏をイメージキャラクターに起用すると発表した。「松井秀喜ベースボールミュージアム」のウェブサイトを見ると、2003、2004年に放送された、松井氏が登場するJALのテレビコマーシャル6本が紹介されている。2004年、すでに経営統合していた旧日本エアシステム(JAS)の航空便をJALブランドに統一したが、企業としての節目ともいえるこの出来事のCMにも松井氏が使われていた。

   さらには、ヤンキースのユニホーム姿でバットを構えた松井氏の大きな顔を機体に描いた「松井ジェット」も飛ばしていた。

   実は大リーグ移籍前、松井氏は必ずしもJALの「ヘビーユーザー」ではなかったようだ。ヤンキースの入団会見のため渡米した2003年1月の報道を見ると、利用したのは当時の米コンチネンタル航空(現ユナイテッド航空)。これはヤンキースが契約していた航空会社だったのが理由のようだ。また読売ジャイアンツ在籍時の1998年に大リーグ観戦のため渡米した際や、2000年に米ロサンゼルスにCM撮影で向かったときはいずれも全日空に搭乗したと報じられている。

   だが、ヤンキース1年目を終えて日本に帰国した2003年11月以降、日米往復の際は「JAL一色」。JAL広報に電話取材すると、松井氏とのキャラクター契約は2004年12月で終了している。それでも現役時代、毎年2月の渡米、12月の帰国の際には、調べた限りでは毎回JALを使っていたようなのだ。

   現役を引退した2012年だけは12月も自宅のあるニューヨークにとどまり、代わりに2013年5月3日に帰国した。翌々日の5日に東京ドームで自身の引退セレモニーと、国民栄誉賞授与式に臨むためだった。成田空港ではJALの大西賢会長が出迎えるという超VIP待遇。個人の搭乗客を直々に空港で迎えるのは初めてだ。

   会長自らそこまで礼をつくした裏には、以前経営危機に陥ったJALを松井氏が激励していた事実があった。

「松井さんは特別な、代えがたい存在」

   2010年1月、JALは会社更生法を申請して経営破たんした。世間から厳しい批判が浴びせられ、再建に大ナタが振るわれていたとき、松井氏はJAL社員を励まそうとメッセージを送った。

   すでに大リーグで誰もが認める実績を積んでいた松井氏。この年はロサンゼルス・エンゼルスに移籍して大リーグ通算150本塁打を達成した。ヤンキース時代の2009年にはワールドシリーズ制覇、MVP獲得と栄光に包まれた。だがメッセージの中では「平坦な道ではなかった」と振り返る。大リーグでは新人からのスタート、言葉の壁に膝のけがやスランプにも見舞われた。だが「そんな時も、僕は一人ではなかった。何十万人、何百万人もの日本のファンがいつもいてくれた」と、心強い応援に感謝する。そのうえでJALに向けてこんな言葉を贈った。

「JALもけっして忘れないでほしいと思う。JALを応援する人が、ここにいることを」

   「命をかける」とまでの覚悟を示して渡米した2003年、不安もある中でスポンサーとしてバックアップを約束してくれたJALの苦境を見過ごすわけにはいかなかったのだろう。メッセージは社内で回覧され、後に機内誌にも掲載されたという。

   2012年、松井氏はタンパベイ・レイズに移籍する。現役最後となるチームでの成績は芳しくなかった。すると今度はJALの社員1400人が松井氏を励まそうと手紙を書き、同社のニューヨーク支店長が試合のためニューヨークに来ていた松井氏を訪ね、渡したという。

   2年間のキャラクター契約はとうの昔に切れている。それでも松井氏は、今もJALに乗り続けている。JALの広報担当者はこう口にした。

「松井さんはJALにとって特別な、代えがたい存在です」。