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保阪正康の「不可視の視点」明治維新150年でふり返る近代日本(6) 「弱者の側に立つ帝国主義的道義国家」(その2)

   帝国主義的道義国家を目指すとの道は、大正期の大川周明や北一輝などの国家主義運動の中にも見られる。大川の大アジア主義、北の宋教仁を通じての辛亥革命への協力などはそうした例にあげられるだろう。昭和の国家改造の動きに見られる破綻はまさにこの面を見失ったからといっても良かった。宮崎滔天や山田純三郎が影響力を失ったのもその例といってよかった。ただ滔天の子息竜介の動きの中にその一端は見えることに注目すべきではある。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
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  • 板垣退助は自由民権運動で大きな役割を果たした

「道義国家」源流のひとつが「愛国社」

   この道義国家の源流を、明治初期に求めた場合、あえてその一つに明治8年の立志社の呼びかけによる愛国社設立をあげておいてもいいだろう。もともとこの集まりは井上馨の仲介で大久保利通、木戸孝充と板垣退助の三者会談(一般には大阪会議と言われている)により、議会開設を要求する板垣らと大久保の新政府との調整を企図していた。初期の民権派や不平士族らは、板垣を支えるための示威行為としての愛国社設立を、やはり大阪で開催したのである。この愛国社設立に全国から集まったのは、行動を前面に打ち出すタイプで、大半は征韓派に与し、征台派のメンバーでもあった。島田一郎、越智彦四郎、増田栄太郎、宮崎八郎、今井鉄太郎などがそうである。

   彼らは、「一剣単身、唯だ赤誠を国に許す士族の徒ありしのみ」とその感情を訴えた。実際に彼らのほとんどはその後の西南戦争に参加している。滔天の長兄である八郎は 西南戦争に参加し、そして戦死している。

   このグループは西南戦争後、新政府が大久保利通による支配を強めると、反政府的立場をより一層強めていく。愛国社は西南戦争時に消滅の方向に向かうが、この反政府的立場の中心になったのはやはり立志社であった。この組織は高知の士族が中心だったが、彼らはやはり全国組織の必要性を痛感し、改めて趣意書を作成して全国の同志に働きかけた。その趣意書の一節には次のように書かれている。

「国家の安危は実に一人の安危に関す。故に一国安ければ一人亦(ま)た安きことを得るも、一国危ければ一人以て安きこと能(あた)わず。嗚呼愛身愛国は豈(あ)に二致あらんや。人真に其身を愛するを知る。亦た当に其国を愛するを知るべし」

   こうした基本精神をもとに、国力の充実を図り、人民の 活力を生かし、独立と国権を守り欧米の国々と対等の立場に立つというのであった。植木枝盛ら愛国社の指導部の面々はこの精神で西日本を演説行脚するのである。そして、この年(明治11年)に大阪で第1回の再建大会を開いて、歴史にその精神を刻んでいる。

もし「愛国社」が政権取っていれば...

   この愛国社は、翌12年の第3回大会で国会期成同盟と名を変えて、国会開設を要求する団体にと衣替えする。国会開設は人民の権利だというのである。

   この愛国社の動きを改めて検証することで、帝国主義的道義国家の源流のひとつを確認することができる。国会開設にいたるまでの愛国社の動きの中に欧米に伍していくとの強い意志が感じられる。もし彼らが政権をとっていたらまさに西欧帝国主義 に対峙する道を選択したであろうことは容易に推測できる。彼らを突き動かしているのは仁や義といった徳目の世界の価値観だからだ。私のいう帝国主義的道義国家とは、つまりはこの愛国社の趣意書を立脚点として広がる近代日本の道筋である。この道筋に宮崎滔天や山田純三郎、それに萱野長知、平山周などの辛亥革命に仁と義をかけた志士たち、その方向は違ったが、大正期の国家主義者たちの姿が浮かんでくる。そう思えば近代日本の150年はより重層的であることを知らなければならないと思えてくる。(第7回に続く)

プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、「昭和史の大河を往く」シリーズなど著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。