J-CAST ニュース ビジネス & メディアウォッチ
閉じる

加藤千洋の「天安門クロニクル」(1)
忘れられぬ日付(上)よみがえる戦車の轟音

   今から29年前の1989年6月4日、中国の北京にある天安門前広場で、民主化を要求して集まっていた学生たちを、中国の人民解放軍が武力で制圧した「天安門事件」が起きました。多数の犠牲者が出たとされる事件ですが、いまだに真相ははっきりしていません。事件から30年となるのを前に、事件当日、朝日新聞社の「AERA」記者として現場を取材していた加藤千洋氏が、現在の視点からこの事件を振り返るシリーズを始めます。


   今年(2018年)6月初め、東京・神保町の書店街を歩いていて、ふと目に飛び込んできた新刊書があった。

『八九六四』――。

   一見、暗号のような書名だ。これでどれだけの人が内容まで推し量れるだろうか。私にはそれで十分、著者のメッセージが伝わった。

   1989年6月4日――。

   前夜からこの日明け方にかけての数時間、建国後初の戒厳令下の中華人民共和国の首都北京で、10数万人の人民解放軍戒厳部隊と、武器らしい武器は持たない群衆(市民と学生)が市内各所で衝突、おびただしい血が流れた。世界を震撼とさせた「血の日曜日」、すなわち「天安門事件」の発生日を書名は意味している。私にとって「6・4」は、「9・11」や「3・11」とともに決して忘れられぬ日付である。

  • 毛沢東が建国宣言した天安門楼閣。手前の広場を占拠した学生らはピーク時、100万人に達した(1989年5月、加藤千洋氏撮影)
    毛沢東が建国宣言した天安門楼閣。手前の広場を占拠した学生らはピーク時、100万人に達した(1989年5月、加藤千洋氏撮影)
  • 毛沢東が建国宣言した天安門楼閣。手前の広場を占拠した学生らはピーク時、100万人に達した(1989年5月、加藤千洋氏撮影)
  • 当時の天安門広場で撮った唯一の写真。記念に記者仲間にシャッターを押してもらった(1989年5月)

学校教育では教えられない事実

   思わず『八九六四』(2018年5月18日、角川書店)を手にとり、奥付を見てちょっと意表を突かれた。著者は1982年の生まれのルポライター、安田峰俊さん。ということは事件当時はまだ小学校2年生。文中で「リアルタイムの記憶はない」と告白しているが、その彼が天安門事件を取り上げるということは、事件は「歴史」の一コマとなったことを意味するのか。

   確かに29年の時は流れた。だが民主化を要求する7週間の運動を持続させた学生らの拠点・天安門広場とその周辺を走り回った私には、まだまだ「歴史」ではない。あの日の「現実」の生々しさは、常に五感の記憶でよみがえってくる。

   戦車の轟音とキャタピラが路面を噛む音。炎上する装甲車の油臭さ。黒光りする兵士の鉄兜。鉄の塊に当たるレンガ片の鈍い音。小銃が放った実弾が空気を切り裂く音。逃げまどう群衆の汗のにおい、そして阿鼻叫喚――いい知れぬ恐怖感を、多くの市民と共有した。

   私は朝日新聞社を退職後、今春まで8年間、大学教員として中国留学生の論文指導も担当した。多くは「80後」「90後」、すなわち1980年代後半から90年代の生まれで、全員が一人っ子のポスト天安門世代である。授業の折りに事件に何度か触れた。初めはポカンとしていたが、しばらくすると耳をそばだてるのがわかった。

   中国では「天安門事件」とは言わない。公の場ではタブーである。そっと口にする場合は「六四」(リュー・スー)と呼ぶことが多い。現代中国の新世代は事件に関する情報をほとんど持ち合わせていない。学校教育では教えられなかったし、おそらく家庭でも話題は避けられたのだろう。ネットで検索しようとも政治的に敏感な用語でアクセスができない。不可視の自国の暗部なのだ。

「現在までに死者は21人」

   私は事件現場に居合わせたが、もちろん市内のあちこちらで起きた衝突のすべてを目撃できたわけではない。むしろごく一部だろう。それでも6月3日深夜、北京市西部から天安門広場を目指し、実弾発射も辞さずに進軍してくる戒厳部隊に遭遇し、群衆とともに逃げまどい、建物や電柱の陰に隠れた。カレンダーの日付が4日に変わって間もなく、毛沢東の大きな肖像画が掛かる天安門の楼閣のすぐ南で、群衆の反撃で炎上する「003」と番号が振られた装甲車を見た。党や政府の重要会議や外国賓客の歓迎式典や会談が行われる広場西側の人民大会堂前でも装甲車が激しく黒煙を上げていた。

   私は膝ががくがくし、身震いが止まらない。やはり怖かった。いま立っている中華人民共和国の首都の大地が揺れ動いている、とも感じた。文革中の暗い、閉ざされた時代をなんとか乗り切り、経済建設に注力する改革開放の時代がやっと軌道に乗り始めたその時、こんなバカなことをしていいのか。怒りにも似た感情で震えていたのだと思う。

   戒厳部隊による広場からの学生の排除作業は4日明け方まで5時間余で終わった。抗議活動を続けて最後まで広場にとどまった学生や市民がどうなったか。残念ながら自分の眼では確認していない。負傷者の状況が気になり、最寄りの大病院である協和病院に回ったのだ。病院の裏門あたりも緊迫していた。人力車や戸板に乗せられて、続々と運び込まれる負傷者は血まみれだった。時折、血で染まった白衣の医師や看護師が出てきて、不安そうに集まった付近の住民に、「ベッド数が足りず、廊下で治療にあたっている」「現在までに死者は21人」などと興奮した口調で告げた。

   その夜は朝日新聞編集局の記者とカメラマンが広場取材を担当すると聞いていた。私自身は創刊から間もない週刊誌『AERA』編集部から一人だけ特派されていた。編集局が担当する日々の新聞づくりには基本的にタッチせず、1週間に1度発行の週刊誌作りの取材で単独行動をとっていた。

   もしや同僚も撃たれたのではないか。主な病院に外国人負傷者はいないかと確認電話を入れた。(次回「下」に続く)

 
加藤千洋さん

加藤千洋(かとう・ちひろ)
1947(昭和22)年東京生まれ。平安女学院大学客員教授。東京外国語大学卒。1972年朝日新聞社に入社。社会部、AERA編集部記者、論説委員、外報部長などを経て編集委員。この間、北京、バンコク、ワシントンなどに駐在。一連の中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。2004年4月から4年半、「報道ステーション」(テレビ朝日系)初代コメンテーターを担当。2010年4月から、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。2018年4月から現職。
主な著訳書に『北京&東京 報道をコラムで』(朝日新聞社)、『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波現代文庫)、『鄧小平 政治的伝記』(岩波現代文庫)など。
日中文化交流協会常任委員、日本ペンクラブ会員、日本記者クラブ会員。