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加藤千洋の天安門クロニクル(4)
「あなたは改革者」(下)学生リーダーの回顧

   学生リーダーの一人、北京大学生の王丹は1988年に仮釈放後、米国に亡命した。渡米後はハーバード大学で歴史学を学び、博士号を取得。その後台湾へ渡り、政治大学、国立清華大学などで研究と学生指導に当たった。いまは再び米国在住だと聞く。

  • 北京市中心部にある胡耀邦の自宅には遺族が住んでいた。どちらかと言えば簡素な佇まいだ。1997年、加藤千洋氏撮影
    北京市中心部にある胡耀邦の自宅には遺族が住んでいた。どちらかと言えば簡素な佇まいだ。1997年、加藤千洋氏撮影
  • 北京市中心部にある胡耀邦の自宅には遺族が住んでいた。どちらかと言えば簡素な佇まいだ。1997年、加藤千洋氏撮影
  • 胡耀邦を追悼しようと花輪をもって天安門広場に向かう学生たち。89年4月、加藤千洋氏撮影

胡耀邦追悼からデモ行進に

   台湾・清華大学時代の講義録『中華人民共和国史十五講』は日本でも翻訳出版された(2014年、ちくま学芸文庫、加藤敬事訳)。この本で王丹は胡耀邦が急死した4月15日以降の「八九民運」の発展経過を日ごとに書きとめている。例えば次のような記述がある――。

   【4月15日】中共中央政治局委員、前中共中央総書記の胡耀邦は、広範囲に及ぶ急性心筋梗塞の突然の発作のために、午前7時53分、北京医院で亡くなった。午後1時30分から北京大学などに哀悼の意を表する大小の壁新聞が出現した。そのなかに、「耀邦すでに死し、左派ふたたび栄える。国人に覚醒を促す、抗争を忘れるなかれ」と書かれたものがあった。また、こう詠じた対聯もあった。

「小平、八四にして健在。耀邦、七三にして先に死す。
政壇の浮沈を問うに、何ぞ命を保つこと無からん。
民主は七〇にして未だ全からず。中華は四〇にして興らず。
天下の興亡を看るに、北大もまた哀れ」

   ここで「七〇」というのは、1919年に起きた五四運動から1989年は70周年、「四〇」は1949年の建国以来40年という意味だ。

   一日おいて4月17日、つまり私が広場の様子を見に行った日だ。王丹によると、広場での追悼行動の先陣を切ったのは中国政法大学の600人余りの大学院生と青年教師らだった。

「手製の花輪を担ぎ、葬送曲を流しながら天安門広場までデモ行進した。その後、六〇人ほどが胡耀邦の家を弔問した」(同書497頁)

   王丹ら北京大学の学生はどうだったのか。

「(王丹が)校内で530元ほどのカンパを集めて花輪を求め、四〇余人を組織して天安門広場に送り込む一方、胡耀邦の家に赴いて哀悼の意を表した」(同)

   翌18日未明から北京大学、北京師範大学、北京航空大学、中国政法大学、清華大学などの大学生6000人がキャンパスから広場までデモ行進し、動きはじわじわと拡大していった。

二つの天安門事件

   ところで「八九民運」は「第2次天安門事件」と呼ばれることもある。それは10年間続いた文化大革命(1966年~76年)の最終盤、1976年4月4日から5日にかけ、北京の天安門広場で起きた民衆の抗議行動、これが従来は天安門事件とされたからだ。厳密に言う場合、こちらを「第1次天安門事件」と呼ぶのだ。

   この二つの運動にはいくつか共通点がある。

   まず基本的には下からの自然発生的な運動であったこと。そのきっかけとなったのが民衆から慕われる政治家の死であったこと。舞台が中国政治を象徴する天安門広場であったことなどだ。

   第1次天安門事件は「人民の宰相」とされた周恩来首相の死(76年1月)が引き金となった。文革中も「不死鳥」「不倒翁」と称されたように、毛沢東主席のナンバー2として本格的な失脚は免れていた。しかし、晩年は江青女史ら文革推進派の「四人組」に巧妙な攻撃を仕掛けられ、他方でがんを患い、心身ともに厳しい状況に追い込まれていた。

   では、その死が第2次天安門事件の引き金となった胡耀邦の場合はどうだったのか。

   胡は1987年1月16日に開催された中国共産党政治局拡大会議で党総書記からの「辞任」を申し出て、承認された。が、事実上は長老たちから厳しい批判を浴びせられたうえでの「解任」だった。趙紫陽首相が総書記代行に、副首相だった李鵬が首相に昇格した。

   この胡失脚劇は重要だと思うので次回に詳細を紹介したいが、アウトラインを書いておこう。

   1986年12月初旬、中国南部の安徽省合肥市にある中国科学技術大学の学生たちが口火を切った学生デモは、またたく間に全国の主要都市に拡大。これを機に、かねて胡に対して不満を高めていた党長老や保守派グループが結束し、「胡総書記の対応は手ぬるい」と批判を強め、最終的に辞任へと追い込んだ。

   こうした経緯から、自由化・民主化に理解を示した指導者が、影響力を失うまいとする老幹部たちに「首を切られた」という無念の思いを、学生たちは持ったのだった。

   そうそう重要な点を書き忘れた。この二つの天安門事件には類似点とともに、決定的な違いがある。

   第1次天安門事件では多数の参加者は「反革命」として逮捕、拘束されたが、文革後に「民衆の革命的行動だった」と再評価され、名誉回復された。

   第2次天安門事件は将来、再評価が実現するのか、しないのか。するとしたら、いつになるのだろう。それはまだ、見通せない。

(次回は「胡耀邦失脚」上)

加藤千洋さん

加藤千洋(かとう・ちひろ)
1947(昭和22)年東京生まれ。平安女学院大学客員教授。東京外国語大学卒。1972年朝日新聞社に入社。社会部、AERA編集部記者、論説委員、外報部長などを経て編集委員。この間、北京、バンコク、ワシントンなどに駐在。一連の中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。2004年4月から4年半、「報道ステーション」(テレビ朝日系)初代コメンテーターを担当。2010年4月から、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。2018年4月から現職。
主な著訳書に『北京&東京 報道をコラムで』(朝日新聞社)、『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波現代文庫)、『鄧小平 政治的伝記』(岩波現代文庫)など。
日中文化交流協会常任委員、日本ペンクラブ会員、日本記者クラブ会員。