J-CAST ニュース ビジネス & メディアウォッチ
閉じる

目指すは「未来の日本代表」が合宿できるピッチ 
Jヴィレッジ、復興への新たな一歩

提供:東京電力ホールディングス

   日本サッカー界の国内有数のトレーニングセンター「Jヴィレッジ」(福島県楢葉町、広野町)が2018年7月28日、営業を再開する。

   来年4月の全面再開に向けて、施設の利用促進を図ると同時にアクセスを整備。JR常磐線の新駅がJヴィレッジ入口まで徒歩2分の場所に設置され、イベントの開催にあわせて臨時駅として使用することが決まっている。

   東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故から7年超。サッカー界と「福島復興」のシンボルとして、新たな一歩を踏み出す。

  • 鮮やかな緑のピッチによみがえった(撮影:阿部稔哉、以下同)
    鮮やかな緑のピッチによみがえった(撮影:阿部稔哉、以下同)
  • 鮮やかな緑のピッチによみがえった(撮影:阿部稔哉、以下同)
  • 楽しい合宿生活が待っている(4人部屋)
  • 監督はゆったり。ミーティングも可能なVIPルーム
  • 栄養バランスに考慮したメニューで選手の健康管理もバッチリ(食堂)

少ない情報が、不安を募らせた

   サッカー・FIFAワールドカップ(W杯)ロシア大会予選の初戦、日本はコロンビアを2対1で撃破。2018年6月20日付のスポーツ紙のトップは、どこも「香川真司」や「大迫勇也」「本田圭佑」らの名前が踊り、日本代表の活躍を賞賛した。

   その日、前夜の興奮冷めやらぬ、Jヴィレッジのラウンジで、株式会社Jヴィレッジの小野俊介専務は、窓の外のピッチを眺めて、こう切り出した。

「2年後の東京オリンピック、そして4年後(のW杯)の事前合宿には日本代表に(Jヴィレッジを)使ってほしい。いや、早く来てほしい」

と。

   それがようやく可能になった。

   じつは、今回のロシア大会前にも「日本代表に合宿を......」と動いたが、間に合わなかった。

   日本代表は過去、男子が7回(1997~2006年)、女子が12回(97~09年)、五輪男子もシドニー大会とアテネ大会の2回、合宿を張っている。

   日本代表が活躍して、その選手たちを鍛え上げたJヴィレッジのピッチやトレーニング施設で、「未来の日本代表」となる子どもたちが汗を流す姿であふれることが、今の小野さんの描く「未来」だ。

news_20180726161347.jpg
株式会社Jヴィレッジの小野俊介専務

   2011年3月11日、東日本大震災。激しい揺れで小野さんは慌てて建物の外に飛び出した。余震が続くなか、気がつくとJヴィレッジには宿泊客のほか、周辺から着の身着のまま避難してきた人など、高齢者を含め300~350人が集まっていた。雪が降るほどの寒さ。暖房を入れた送迎用バスで待機した。

   幸い、スタッフや宿泊客、避難者にケガ人はなかったものの、Jヴィレッジの施設には、ピッチに地割れが入り、敷地内に架かる橋が崩れたり、建物にも一部亀裂が入ったり、屋内も風呂場の扉が外れたり、浴槽が傷んだりした。

   しかし、津波には気づかなかった。Jヴィレッジが高台にあったためだが、地元のスタッフが一時帰宅する際に同乗したクルマから見た光景で初めて知った。海沿いにあるはずの民家がなくなっていた。

   停電でテレビも見られない。少ない情報がより不安を募らせ、夜を明かした。

もぬけの殻のJヴィレッジに、防護服の作業員

   次の日(3月12日)の朝9時ごろ、楢葉町から避難勧告があった。「放射能が漏れたみたいなので、なるべく南へ逃げろ」という。

「それまで情報が閉ざされていたため、世の中がどうなっているか、さっぱりわからず、とりあえず、いわき市の小学校へ向かうことになりました。
ただ、当時は『原発事故』『放射線』といわれても、それがどういうものなのか、よくわからなかった。正直、『逃げろ』といわれても、どうすべきなのか。目に見えない何かに追われる、そんなイメージしかありませんでした」
news_20180726162003.jpg
小野俊介さんは「正直、逃げろといわれても......」と、当時を振り返る

   原発から南へ約20キロ。もぬけの殻となったJヴィレッジは、震災直後の2011年3月15日から13年6月30日までスポーツ施設としては全面閉鎖され、国が管理する原発の事故処理の前線基地となった。一時は、1日約2000人の作業員がいくつかの班に分かれてバスに乗り込み、原発のある大熊町に向かった。

   テレビからは、息苦しそうな白い防護服に身を包み、途方に暮れるような膨大な作業に疲れ切った作業員の姿が映し出された。「まるで戦場のよう」――。その印象は強烈で、多くの人の脳裏に焼き付けられた。

小学生の全国大会こそ「復興」のシンボル

   Jヴィレッジの復興を後押ししたのは、2013年9月の東京五輪・パラリンピックの開催決定だった。原発事故後、12年11月から徐々に撤収がはじまり、13年3月末には一部を除き完全撤収。14年5月にJヴィレッジ復興プロジェクトが結成され、翌15年1月には「新生Jヴィレッジ」復興・再整備計画が策定された。

   少しずつ動き出したJヴィレッジだが、小野さんには不安のほうが大きかった。一つはホテルの従業員など、人手の問題だ。「この7年間、ずうっと営業していなかったわけですから。当時のスタッフの中には、現在も仮設住宅で暮らしていたり、福島を離れてしまったり、それぞれに事情がありましたからね」。

   それだけではない。今でこそピッチは青々とした芝生で覆われているが、当時、そこに芝生はなかった。むきだしの土にアスファルトや砂利が撒かれ、鉄板が敷かれた場所は資材置き場と化していた。安心して利用できるようにするには、除染作業も必要になる。そういったすべてを、原状回復しなければならなかった。

news_20180726162429.jpg
「子どもたちのプレーを通じて、福島が元気になる」(小野俊介さん)

   そして、なにより「利用者が戻ってきてくれるのか」、心配だった。1年前、JFAがサッカーをやっている子どもを持つ保護者に、J ヴィレッジの利用についてアンケート調査を実施したところ、約半数が「不安がある」と答えた。

   小野さんは「今もなお、震災直後の(事故対応の前線基地として利用されていた)印象が強く残っています」と、こぼす。

「大切なお子さんを、放射線の危険性があると思われている場所で合宿させるなど、ためらうのは当たり前でしょう。ただ、そんな懸念を払しょくするためにも、日本代表にJヴィレッジでプレーしてほしいんです。その姿を見て、子どもは(Jヴィレッジへ)行きたいと言い、親御さんも安心して送り出せる。1日も早く、そうなりたいんです」

   目指すは、多くの小学生がピッチに立つ「全国少年サッカー大会」の開催。震災前の2006~10年(5回)に開いていた、この大会を再び開催することが一番の復興のシンボルになると、小野さんは信じている。「子どもたちのプレーを通じて、福島が元気になった姿を全国に見せることで、帰還を悩んでいる地元の人が戻ってこようと思える、その起爆剤になるはずです」とも。

「Jヴィレッジを震災前のように、活気あふれる姿に再生することが夢なんです」
プロフィール

小野 俊介

(おの・しゅんすけ)

株式会社Jヴィレッジ 専務取締役

1998~2005年、日本サッカー協会 (JFA)に勤務。その後、日本協会女子委員などを歴任。(株)日本フットボール・ヴィレッジ(現・Jヴィレッジ)取締役統括部長を経て、13年7月に常勤取締役。16年5月から現職。

東日本大震災当時は、東京電力女子サッカー部マリーゼのゼネラルマネージャー(06年就任)としてJヴィレッジに勤務していた。「福島はいいところ。老後も住みたい」という。

東京都出身、60歳。


Jヴィレッジ

1997年、日本サッカー協会(JFA)と日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)、福島県、東京電力などが出資して設立。改装したホテル棟は、合宿タイプの4ベッドの客室38室とシティホテルタイプのツインの客室45室を用意。スタイリッシュな客室を中心とした117室の新ホテル棟を加え、最大470人が宿泊できる。フィットネスジムや300人収容のコンベンションホール、研修室なども備えた。

天然芝5面と人工芝1面、雨天練習場やアリーナ、天然芝のスタジアムなどは、今夏から利用できるほか、秋には人工芝1面、国内初の施設で人工芝のピッチが入るDOME全天候型練習場の利用が、2019年春には天然芝2面の利用も可能になる。

2019年開催のラグビーワールドカップでは、トップリーグのチームが合宿を検討。また、20年の東京五輪に向けてはサッカー日本代表が事前合宿で利用することが決まっている。今後は企業の社員研修やセミナーなどにも注力する方針で、ドローン操縦者の合宿研修や最近話題のeスポーツのイベントなどの開催が検討されている。

8月には約7000人の宿泊予約が入っている(6月20日時点)。