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加藤千洋の「天安門クロニクル」(7)
動乱社説(上)何度かあった転機

   外国メディアが中国で取材活動をしようとする場合、1989年当時の中国政府は在外公館での取材のためのビザ取得を義務付けていた。当然ながら申請時には取材の目的を届け出なければならない。いまも基本は同じだろう。

   当時のパスポートを見ると、ビザの印が2つ押されている。いずれも東京の在日中国大使館が発行したものだ。

  • パスポートに押されたビザ
    パスポートに押されたビザ
  • パスポートに押されたビザ
  • 何度か付き合った学生たちのデモ行進

学生たちに歓迎された外国メディアの取材

   最初のビザを使って、まず4月8日に入国。前に書いたように黒竜江省の中ソ国境地帯を取材で歩いた。4月15日の胡耀邦の突然の死と、学生らの追悼活動の盛り上がりが気になったが、『AERA』でゴルバチョフ書記長訪中による中ソ両国の「30年ぶりの和解」特集を組むため、19日にいったん帰国した。

   帰国後すぐに2度目のビザを申請。特集の編集作業や連休などを挟んで再び入国したのは5月12日になった。ゴルバチョフ訪中と中ソ首脳会談の本番取材が目的で、ビザ申請の際も取材目的として届け出ていた。だが、デモの規模がどんどん膨らむ民主化運動のウォッチも目が離せない任務になっていた。

   天安門広場を拠点に抗議活動を本格化させていた学生たちは、自分たちの訴えを海外に広めてほしいと、基本的には外国メディアの取材を歓迎した。中国でのインターネットの一般サービス開始は94年以降のこと。89年時点では外国メディアの取材を受けることが、自分たちの主張を海外へ広げる有力手段だったのだ。

   私は広場に出入りする際、ビニールケースに入った記者証を首からぶら下げた。外国メディアを管理する中国外務省報道局が発行した中ソ首脳会談用の臨時記者証だったが、ちゃんと手続きをして入国した記者であると証明するため、常時携帯していた。ビザの有効期間は3カ月あったが、2回目の中国滞在は6月18日に出国するまで38日間に及んだ。

   ちなみに天安門取材ではフリーランスの米国人記者や日本のフリーカメラマンと知り合ったが、正規の取材ビザをとらず、より簡単な観光ビザを使い、香港経由で北京入りした連中も少なからずいた。

火をつけた「動乱社説」

   さて長丁場となった民主化運動の取材だが、7週間継続した運動を以下の5つの時期に分けたいと思う。

第1段階:4月15日の胡耀邦の死から4月26日に人民日報が学生運動を「動乱」と規定した社説を掲載するまで。
第2段階:中国で最初の反帝国主義、反封建主義の愛国主義民衆運動とされる「五四運動」の70周年記念日の5月4日前後まで。
第3段階:学生たちが「改革の旗手」と見なしたソ連共産党ゴルバチョフ書記長の5月15日の訪中、その後の中ソ首脳会談まで。
第4段階:趙紫陽総書記の失脚と李鵬首相ら保守派主導による5月20日の北京戒厳令公布まで。
第5段階:6月3日~4日の戒厳部隊による武力鎮圧行動と強硬派勝利まで。

   後から振り返れば、この「動乱社説」「五四運動70周年」「ゴルバチョフ訪中」「戒厳令発令」「武力鎮圧」という5つの出来事が、50日間の民主化運動に節目を刻む転機だったように思う。

   まず第1段階だが、4月15日朝の胡耀邦前総書記の死と、当夜から始まる学生の追悼活動が一連の運動の端緒だったことは、これまで見てきた通りだ。

   私は17日の広場での学生たちの胡耀邦追悼の動きを一瞥して、「何か起こるかもしれない」との感触を持ったが、いったん同行のカメラマンと共に帰国した。刻々と動く北京情勢が気にはなったが、再入国は単独で5月12日になった。

   帰国中の手帳を見ると以下のメモが残っている。

4月25日、人民日報動乱社説
4月26日、北京高校学生自治聯合会(高自聯)成立、はじめ「団結学生会」の名称

   宿泊は地の利を考え、最初の1週間は北京西北部の大学が集中する地区にある中規模のホテルを選んだ。窓の外には学院路が見え、学生たちが天安門を目指してデモ行進する場合はほとんどが通過する。北京大学や人民大学のキャンパスにも近く、取材には絶好の場所と考えた。

   狙い通り学生デモが何度かホテル前を通った。ある日のデモに紛れ込み、しばらく行動を共にした。デモだからスローガンを横断幕や旗に表示し、時折、沿道で見物する市民にアピールするためにシュプレヒコールを叫ぶ。だが沿道の民衆にも歓迎されたので殺気立ったムードはなく、「和気あいあい」の学生仲間の行進といった雰囲気も漂っていた。

   学生が大規模なデモに立ちあがったのは4月27日だ。日本メディアは「参加者10万人、沿道の市民100万人に達した」と報じた。

   4月26日付の中国共産党中央機関紙『人民日報』が「旗幟鮮明にして動乱に反対しなければならない」と題した社説を掲載したことに抗議。その撤回を訴えたのだ。残念ながら北京不在のため、この盛り上がりは見られなかった。

   社説の内容は25日夜の中国中央テレビ(CCTV)夜7時のニュースが事前に放送した。翌日の新聞は社説を1面トップに据え、当局が事態をいかに重視しているかを示した。

   社説は学生らの動きを「愛国的な行動」とする一方、破壊活動などが生じたことを指摘し、「これは計画的な陰謀であり、動乱である」と決めつけた。この「動乱」という二文字に、学生たちは猛烈に反発したのだ。(次回「下」に続く)

加藤千洋さん

加藤千洋(かとう・ちひろ)
1947(昭和22)年東京生まれ。平安女学院大学客員教授。東京外国語大学卒。1972年朝日新聞社に入社。社会部、AERA編集部記者、論説委員、外報部長などを経て編集委員。この間、北京、バンコク、ワシントンなどに駐在。一連の中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。2004年4月から4年半、「報道ステーション」(テレビ朝日系)初代コメンテーターを担当。2010年4月から、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。2018年4月から現職。
主な著訳書に『北京&東京 報道をコラムで』(朝日新聞社)、『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波現代文庫)、『鄧小平 政治的伝記』(岩波現代文庫)など。
日中文化交流協会常任委員、日本ペンクラブ会員、日本記者クラブ会員。