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加藤千洋の「天安門クロニクル」(8)
1989年という「節目」(下) 趙講話は歓迎された

   さまざまな意味で節目の年であった1989年の年明け以降の社会状況を見てくると、一連の知識人や学生らの行動から見えてくるものがある。

   それは胡耀邦失脚の原因となった1986年末から1987年初めにかけての学生運動は、いったんはつぶされたが、その火種は完全には消えず、1989年春の天安門広場で再び燃え上がった、という構図である。

  • ADB総会での趙紫陽の発言を1面トップであつかった5月5日付『人民日報』)
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  • 紫陽演説の積極的な効果で「大学で授業が復活」と報じた5月6日付『人民日報』)

学生との対話に応じた当局

   さて50日間続いた民主化運動の経過に戻ろう。

   『人民日報』4月26日付の「動乱社説」に反発を強めた学生たちは4月27日に初めて10万人規模の全市デモを成功させた。例によって主催者と警備当局発表の参加人数には大きな差が出るものだが、当局にとっても参加者数は予想以上のものだったようで、学生パワーの盛り上がりに、それまで無視してきた学生側からの対話の要求を受け入れる方向に軌道修正を図った。

   最初の対話会は4月29日にセットされた。李鵬首相の委託で国務院(政府)を代表したのは袁木・国務院スポークスマンと何東昌・国家教育委員会副主任ら。学生側は北京の16大学が参加したが、学生の多くは官製の学生会組織が派遣したもので、在来の学生組織を否定して新たな自治会を立ち上げたばかりの「北京市高校(大学)学生自治聯合会」(略称・高自聯)は反発した。以後、この「高自聯」が広場を中心とした民主化運動の中心を担っていく。

   私は対話の模様をテレビニュースで見たが、映画の悪役が似合いそうな風貌の袁木は、のらりくらりとした対応ぶりとも相まって、学生らには極めて不評だったようだ。私が見た学生の宣伝ビラでは「縁木求魚」(木に登って魚を求める。やり方を間違えて目的を達成できないこと)という成語で皮肉られていた。中国語で「袁」と「縁」は発音が同じだ。

   やっと実現した対話の機会ではガス抜きにもならなかった。その後も対話は断続したが、終始かみ合うことはなかった。

   それに対し学生らに概ね好感されたのは趙紫陽総書記の「五四運動」70周年記念講話(5月3日)と、北京で開かれたアジア開発銀行(ADB)総会の出席者代表に対する講話(5月4日)だった。

   「青年諸君、学生諸君、同志諸君」の呼び掛けで始まる「五四運動」記念講話は、青年たちの役割を称賛しつつ、当面の政治、社会情勢にも言及。その基本線は「社会の安定維持、動乱反対」ではあったが、青年の愛国心と民主政治を求める心情や、蔓延する汚職腐敗に反対する訴えなどは肯定されるべきとする内容だった。

   ADB総会代表には「今の事態は徐々に収まるだろう。中国に大きな動乱が起きるはずはないと、私は十分に自信がある」と断言。「今最も必要なのは冷静、理智、自制、秩序である。問題は民主と法制にのっとって解決すべきである」と強調した。

   この2つの総書記講話の起草者は秘書の鮑彤(党中央委員)だとされる。彼は単なるスピーチライターではない。趙のブレーン集団だった党中央政治体制改革研究室の責任者で、趙の知恵袋的な存在だった。このため天安門事件で逮捕された最高位の党幹部となってしまい、研究室は取りつぶされた。

   後日談だが、懲役7年の刑期満了後の鮑彤を北京市西部の自宅マンションに訪ねようとする外国メディアの記者は、一階ロビーに待機する公安当局者と思われる男たちによって制止される。自宅軟禁とまではいえないが、なお常時監視の目が光る生活を強いられているようだ。

   『趙紫陽 極秘回想録』の基となったテープに吹き込まれた「証言」を編集した一人は、米国に逃れた後、香港に移って出版活動をしている息子の鮑樸で、中国語版には鮑彤が序言を寄せている。

抜け落ちたキーフレーズ

   さて、この重要なタイミングでの趙紫陽の「五四運動」記念講話は、党内手続きとして事前に政治局、党中央書記処の審査を経なければならなかった。だが実際の演説ではキーフレーズが一つ抜け落ちていた。

   それは審査の過程で保守派指導者たちが挿入するよう拘った「ブルジョア自由化に反対する」という文言だった。

   この点に関する指導部内の駆け引きについては、やはり『天安門文書』などが明らかにした内幕が興味深い。

   政治局で「ブルジョア民主化(自由化)に反対する」を付け加えるべきと主張したのは長老指導者の一人で鄧小平の腹心の楊尚昆国家主席、治安担当で中間派的存在の喬石、李鵬首相、姚依林副首相、それに北京市トップの李錫銘書記といった保守派の面々であった。そして――。

「李鵬の要請を受けた楊尚昆は会議の前に趙を探し出し、この文言を加えたかと質した。趙は笑みを浮かべながら『尚昆同志、いまの雰囲気ではそれをあまり強調しないほうがよいと思いますよ』と答えた」(『天安門文書』132頁)

   いずれにしろ学生たちは「動乱社説」とは一線を画す内容の趙紫陽講話を、「指導者が初めて自分たちの行動に理解を示した」と受け止めた。盛り上がっていた運動をいったん鎮静化させる上では一定の効果があったようで、学生の受け止め方は一様ではなかったが、授業へ戻ると話す学生も少なくなかった。

   学生も当局も、「五四運動」70周年を一つの山場と定めていたのかはわからない。ただこのピークを無難にやり過ごせば、学生たちの熱気も徐々に冷めていくかもしれない。そんな風な思いが頭をかすめたのだが、実際は逆だった。

   改革派知識人やジャーナリストらの動きが活発化し、党内闘争の動向を反映するような動きも目につき始めた。(次回は「報道人の決起」上)

加藤千洋さん

加藤千洋(かとう・ちひろ)
1947(昭和22)年東京生まれ。平安女学院大学客員教授。東京外国語大学卒。1972年朝日新聞社に入社。社会部、AERA編集部記者、論説委員、外報部長などを経て編集委員。この間、北京、バンコク、ワシントンなどに駐在。一連の中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。2004年4月から4年半、「報道ステーション」(テレビ朝日系)初代コメンテーターを担当。2010年4月から、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。2018年4月から現職。
主な著訳書に『北京&東京 報道をコラムで』(朝日新聞社)、『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波現代文庫)、『鄧小平 政治的伝記』(岩波現代文庫)など。
日中文化交流協会常任委員、日本ペンクラブ会員、日本記者クラブ会員。