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加藤千洋の「天安門クロニクル」(10)
ゴルバチョフ訪中(上)「改革の旗手」歓迎と絶食闘争

   民主化を求める学生たちの大字報(壁新聞)や伝単(宣伝ビラ)、あるいは游行(デモ行進)のプラカードなどに、「うまいなあ」と思わず唸ってしまうような文言にいくつか出合った。ただ単に非難、抗議、要求の項目を並べるのではなく、諧謔味や皮肉を利かせたものである。

  • ソ連共産党書記長の訪中前夜、「ゴルバチョフのようなリーダーがほしい」と書いたプラカードを手にする広場の学生
    ソ連共産党書記長の訪中前夜、「ゴルバチョフのようなリーダーがほしい」と書いたプラカードを手にする広場の学生
  • ソ連共産党書記長の訪中前夜、「ゴルバチョフのようなリーダーがほしい」と書いたプラカードを手にする広場の学生
  • ガリ版刷りの「絶食宣言」。紙の右側が一部欠けているが、発行者は、首都大学の絶食闘争に志願した学生という名義だ

まぶしかったゴルバチョフ

   「你是58、我是85」――これなども「傑作」の一つとして、いまも私の記憶に刻まれている。

   「あなたは58歳、わたしは85歳」という意味だが、「你(あなた)」はソ連共産党のゴルバチョフ書記長を、「我」は中国の最高実力者、鄧小平を指していることは、中国の民衆はすぐに理解できただろう。

   1904年8月生まれの鄧は天安門事件当時(6月)、間もなく85歳になるところだったが、なお共産党独裁体制の「最高実力者」として君臨。

   他方、共産主義運動の兄貴分であるソ連共産党のトップは1931年3月生まれの58歳。1985年春、彗星のように現れて書記長の座を射止めた時は54歳だった。

   その27歳の年齢差がある両者が、30年間の対立関係を収束させるべく和解の握手をするが、ペレストロイカ(立て直し)とグラスノスチ(公開)を引っ提げ、停滞したソ連社会主義の改革に大ナタを振るう「戈尔巴乔夫」(中国語の「ゴルバチョフ」)の清新なイメージは、中国民衆にもまぶしく映っていた。

   とくに学生たちが「改革の旗手が来る」と熱烈歓迎したことは、この写真を見れば一目瞭然だろう。

   5月15日からのゴルバチョフ書記長訪中は、「五四運動」70周年に次ぐ学生運動の重大な転機となった。「改革者」来訪をチャンスと見た学生たちが13日から天安門広場で絶食闘争(ハンガーストライキ)に入ったからだ。

   悲壮感を漂わせる自己犠牲的な非暴力の闘争は、運動仲間だけでなく大学の教職員や一部の政府機関職員、国営企業労働者、運動を支持する市民らに大きな反響を呼び起こし、他方で「万一、広場で死者が出たら」などと当局を困惑させ、衝撃を与えた。

   広場で私が収集した学生たちの「絶食宣言」は新たな闘争手段をとらざるを得なかった理由を3つあげていた。

(1)政府が学生のストライキ(授業ボイコット)に対して取っている無関心で冷ややかな態度に抗議するため。
(2)政府が首都大学対話代表団との対話を引き延ばしていることに抗議するため。
(3)政府が今回の学生の民主愛国運動に対して一貫して"動乱"というレッテルを張り、一連の歪曲した報道を続けることに抗議するため。

   さらに絶食闘争で要求するのは以下の2点だとした。

(1)政府がすみやかに北京の大学対話代表団と実質的、具体的で真に平等な対話を受け入れるよう求める。
(2)政府が今回の学生運動の名分を正し、公正な評価を行い、愛国的・民主的な学生運動であることを肯定するよう求める。

   そして「時間と場所」を「5月13日午後2時 天安門広場」と指定し、最後に「これは民衆による民主運動であり、動乱ではない。なんびとも押しとどめられないものである」とやや大きな文字で強調していた。

ハンスト情報で緊迫

   学生運動は「五四運動」記念日を契機に、座り込みを中止してキャンパスに戻ろうという穏健派と、闘争継続を主張するグループ間の徐々にミゾが広がっていたが、「絶食」という強硬な手段にエスカレートさせようと動いたのは、闘争継続派の多い北京大学、北京師範大学の学生が主だったようだ。

   リーダーの一人、王丹によればハンストを決定したのは2日前の11日で、王(北京大学)やウイグル族学生のウルケシ(北京師範大学)らが議論に参加していたという。(王丹『中華人民共和国史十五講』)

   その翌日の12日に私は2度目の北京入りをした。ハンストが始まるとの情報に、13日は一番に広場へ駆けつけた。何となく漂う空気に高揚感というのか、騒然とした雰囲気が増したように感じた。以前はあまり見かけなかった種類の人々、例えば大学関係者や政府部門で働くホワイトカラーのような感じの人たちの姿が増えたようにも感じた。

   そのころ北京大学では決意の鉢巻をしめた100数十人の絶食志願者が学生運動のシンボル空間であるキャンパス内の三角広場に集合。正午を期して宣誓式を挙行し、それから一部の学生は大学近くの食堂で"壮行昼食会"を行い、北京師範大学の志願者グループと合流するため、キャンパスを後にした。

   広場には女性リーダー、柴玲を総指揮に「天安門広場絶食団指揮部」が設けられ、ハンスト参加者は千人、二千人と日ごとに増え、水やサイダー、砂糖水は口にしたが、二日、三日と経つにつれて昏倒者が続出。担架で救急テントに運ばれ、広場にはひっきりなしに救急車のサイレンの音が響いた。

   ハンストという「死を賭した」闘争を思いとどまらせようと多数の知識人も説得に乗り出した。当局はソ連指導者の公式訪問という国家行事に支障を出さぬようにとの思惑から、党と政府の高官が学生との対話に乗り出し、学生宛に緊急メッセージが発せられた。

   急進改革派の女性ジャーナリスト、戴晴は広場に設けられた学生たちの放送システムを使い、運動を支援する知識人グループを代表して緊急アピールを朗読した。

「民主主義は発展に時間がかかります。一晩で達成することはできません。騒ぎをあおり、対立を広げ、事態を悪化させようとする人々がいます。改革と民主化の進行を妨げるためです。わが国の改革の長期的利益に奉仕するために、また、あなたたちを傷つけ、あなたたちの敵を喜ばすだけの事件の発生を防ぐために、そして中ソ首脳会談が滞りなく行われるために、わたしたちは、あなたたちが広場からの一時撤収という形で運動の最高の理想を払うよう願っています」

   だが、必死のアピールは学生たちの耳に届かなかった。

加藤千洋さん

加藤千洋(かとう・ちひろ)
1947(昭和22)年東京生まれ。平安女学院大学客員教授。東京外国語大学卒。1972年朝日新聞社に入社。社会部、AERA編集部記者、論説委員、外報部長などを経て編集委員。この間、北京、バンコク、ワシントンなどに駐在。一連の中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。2004年4月から4年半、「報道ステーション」(テレビ朝日系)初代コメンテーターを担当。2010年4月から、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。2018年4月から現職。
主な著訳書に『北京&東京 報道をコラムで』(朝日新聞社)、『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波現代文庫)、『鄧小平 政治的伝記』(岩波現代文庫)など。
日中文化交流協会常任委員、日本ペンクラブ会員、日本記者クラブ会員。