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加藤千洋の「天安門クロニクル」(11)
指導部に亀裂走る(下)趙紫陽失脚

   さて趙紫陽がゴルバチョフに党の秘密決議「いまも最も重要な問題では鄧小平同志が舵を取る」を暴露した意味は、要は「いまのこの事態を収拾できないのは鄧小平の同意がないためだ」ということになる。

   学生と知識人グループ、彼らを支持する労働者や市民は、その「真意」を敏感にかぎ取った。運動にそれまでとは違う現象が2つ起きた。

  • 武装警察職員も堂々と制服姿で学生「声援」デモに加わった。5月中旬、北京長安街で
    武装警察職員も堂々と制服姿で学生「声援」デモに加わった。5月中旬、北京長安街で
  • 武装警察職員も堂々と制服姿で学生「声援」デモに加わった。5月中旬、北京長安街で
  • 天安門広場に登場した鄧小平批判の大型プラカード)

不満に火をつけた趙紫陽の「機密暴露」

   一つは、デモ参加者が一気に百万人規模に達し、中心部の幹線道路がほぼマヒ状態に。地方の主要都市でも数千人から数十万人の集会やデモが発生した。

   首都の大規模デモには、所属を堂々と明示した旗を持つ政府・党機関(外交部、郵電部、党組織部、党統一戦線部、党中央学校など)の職員や軍の非制服組、武装警察部隊も含まれ、大学から小学校までの教育関係者、ジャーナリスト、国営基幹工場の労働者らと幅広い社会層に広がったことを示した。ある意味で「運動」の主体が学生の手を離れたようにも感じた。

   またプラカードや横断幕に「声援」の文字が目立った。これは「絶食闘争」に踏み切った学生らを支援しようという動きが、これまた広汎な社会層にアピールしたことを物語っていた。

   もう一つの変化は、運動支持者から「頑迷な保守派」と見なされた鄧小平、それに李鵬に対する名指し批判が公然と出てきたことだ。

   この写真のプラカードには「鄧小平」の文字はない。代わって描かれたのはぐらつく台にのった「小瓶」だ。中国語では「瓶」の発音が「平」と同音の「ピン」なので、「小瓶」は「小平」に通ずる訳だ。

   以前から中国では人気スポーツの女子バレーボールが五輪や世界選手権で優勝すると、大学キャンパスでは学生たちが宿舎からサイダー瓶や牛乳瓶が投げて割り、憂さ晴らしの騒ぎを起こした。現在の中国では、毛沢東以来とされるほど権力を集中した習近平主席(党総書記)に対する名指し批判ははばかれる状況にある。代わってネット上に登場したのが、なんとなく姿かたちが似ているディズニーの人気キャラクター「くまのプーさん」だ。それがためか、プーさんの実写版ディズニー映画は中国では上映が禁止されたとか。

   それはそうと天安門事件当時、中国では「八老治国」という言い方がはやっていた。8人の老人がいまだに国家を統治しているという意味だ。代表格が鄧小平で、他は陳雲(党中央顧問委主任)、李先念(政治協商会議主席)、彭真(前全人代常務委員長)、楊尚昆(国家主席)らいずれも80歳超の「革命の元老」だ。彼らが現役の指導部をしのぐ発言権を時に行使した。

   こうした「老人支配」にうんざりしていた民衆の不満に趙紫陽の「機密暴露」は火をつけたといえる。北京大学の党員の教員や大学院生らの緊急アピールは「鄧(小平)は党中央主席でないにもかかわらず、直接全党に命令を下すことができる。これは党内民主の蔑視であり、破壊である。家長制と独裁性の現れである」と指摘した(『中華人民共和国史十五講』319頁)

   当時の党最高決定機関の政治局常務委員は5人。趙紫陽、胡啓立が改革派、李鵬、姚依林が保守派、喬石が中間派と見られていた。この中で李鵬が反趙紫陽の保守派グループの急先鋒というのが一般的な見方だった。

   こうした政治的構図の中で、党トップの総書記の座にあった趙紫陽はゴルバチョフが北京を離れて上海へ向かった5月17日夜から18日にかけて、実質的に失脚に追い込まれた。党指導部に鋭い亀裂が走り、鄧小平ら「八老」をバックにつけた李鵬、姚依林らの力が圧倒的に優勢となった。

   趙紫陽は18日早朝に入院学生を病院に見舞い、19日早朝も天安門広場に現れてハンスト学生を慰問。学生に手渡されたハンドマイクを握って、「皆さん、我々は来るのが遅すぎた」と時折、涙声で語りかけた。この時は、すでに自らの失権を認識していたのだろう。

膨らんでいた鄧小平と趙紫陽の矛盾

   6月4日の武力鎮圧から間もない頃、消息通の北京紙のD記者に会った。Dは「八老」の一人と親しく、手帳には長老や政治局員クラスの幹部の自宅の電話番号が書いてあるのを、ちらっと見せてくれたことがある。

   「鄧と趙の矛盾は1989年に入ってから徐々に膨らんでいた」と言って、以下の3点をあげた。

(1)方励之がブッシュ大統領の答礼宴に招待された際、趙はこれを「黙認」。楊尚昆は「方が参加するなら、私は欠席する」、鄧は自ら公安部長に阻止するよう指示を出した。
(2)陳軍らの政治犯釈放を求める公開書簡発表、署名運動についても、趙は緩やかな社会状況は好ましいと「黙認」、鄧は非常に不愉快だと感じていた。
(3)胡耀邦の葬儀の際、趙が鄧の意に反して「格式」を上げ、「ブルジョア自由化に適切に対処しなかった」と断罪された幹部の見直しに道を開いた。これに対しても鄧は非常に不満だった。

   この時の私の取材ノートには、ほかにD記者が「知識人の黒名単には約2000人の名がある」と話したとある。「黒名単」とはブラックリストのことだ。(次回は「ついに首都に戒厳令」上)

加藤千洋さん

加藤千洋(かとう・ちひろ)
1947(昭和22)年東京生まれ。平安女学院大学客員教授。東京外国語大学卒。1972年朝日新聞社に入社。社会部、AERA編集部記者、論説委員、外報部長などを経て編集委員。この間、北京、バンコク、ワシントンなどに駐在。一連の中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。2004年4月から4年半、「報道ステーション」(テレビ朝日系)初代コメンテーターを担当。2010年4月から、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。2018年4月から現職。
主な著訳書に『北京&東京 報道をコラムで』(朝日新聞社)、『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波現代文庫)、『鄧小平 政治的伝記』(岩波現代文庫)など。
日中文化交流協会常任委員、日本ペンクラブ会員、日本記者クラブ会員。