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加藤千洋の「天安門クロニクル」(12)
ついに首都に戒厳令(上)『政変』の夜

   もう30年も前のことだから細部の記憶は薄れてしまったが、あの夜のテレビ画面から伝わってきた、なんとも異様な雰囲気は忘れられない。

   1989年5月19日午後11時半ごろ、中国中央テレビが「間もなく重要放送。注目すべし」と予告。時計の針が20日の午前零時半をさした頃、やっと放送が始まった。映し出したのは2時間ほど前の19日午後10時ごろから北京市内で緊急に招集された会議の模様だった。

  • 5月20付けの『人民日報』は奇妙な紙面になった。トップは「党・政府・軍幹部大会」だが、右肩に趙紫陽のハンスト学生慰問の行動も報じられていた
    5月20付けの『人民日報』は奇妙な紙面になった。トップは「党・政府・軍幹部大会」だが、右肩に趙紫陽のハンスト学生慰問の行動も報じられていた
  • 5月20付けの『人民日報』は奇妙な紙面になった。トップは「党・政府・軍幹部大会」だが、右肩に趙紫陽のハンスト学生慰問の行動も報じられていた
  • 当時、街のあちこちで鄧小平批判のビラや壁新聞が見られた

トップの趙紫陽不在の会議

   それまであまり耳にしたことがなかった「中央と北京市の党・政・軍幹部大会」という名称の会議だった。中国共産党中央と国務院(政府)が招集し、憲法の規定に基づき首都北京に戒厳令を敷くことを宣言するのが目的だった。

   後で知ったが、参加者は共産党と国務院、人民解放軍の副部長級(次官級)以上の幹部を集めたが、その名簿や人数などは公表されなかった。

   そのような重大な会議だが、なんの飾りつけもない学校の講堂のような場所で、十分な照明が無かったのか、画面はなんとなく薄暗かったのが奇妙だった。北京の中心部から少し離れた軍のある機関の講堂が使われたという。

   カメラが振られ、壇上に並んだ幹部たちが映し出される。こうした場面は中国のテレビ報道をウォッチする場合、重要なポイントである。

   誰が出席し、誰が不在か。誰が主宰し、演説をするのは誰か――。

   北京を公式訪問したゴルバチョフソ連書記長の帰国後、中国の政権中枢で展開された権力闘争の結末が画面に現れるはずだ。そういう視点で見ていた私は出席を確認できた幹部たちの名前をメモしていった。

   壇上に確認できたのは、最高指導部の政治局常務委員5人のうち李鵬(首相)、姚依林(副首相)、喬石(政法委書記)、胡啓立(書記)の4人で趙紫陽はいなかった。何度確かめても、党中央を代表するトップの総書記がいない。これは趙がすでに指導権を奪われ、失脚したことを意味していた。

   他に楊尚昆(中央軍事委副主席、国家主席)と王震(国家副主席)の長老が壇上に。中日友好協会長も務めた王震は87年の胡耀邦追い落としの際に活発に動いた保守派。2人は姿を見せなかった鄧小平の代理人だったのだろう。

   異様に感じた理由の一つは服装だった。重要演説を行った李鵬首相は、普段あまり見ない黒っぽい詰襟の中山服を着用。演説シーンが映し出されたが、表情はいつにも増して硬かった。

   李鵬の厳粛ないでたちに対し、胡啓立はジャンパー姿だった。趙とともに戒厳令に反対する立場をとっていたが、急に呼び出され、あたふたと駆け付けたという風情だった。胡耀邦に目を掛けられ、将来の総書記候補ともされたエリートだったが、この会議を境目に急速に政治的影響力を失っていく。そして制服姿の軍人が多数参加していたことも気になった。

   会議は喬石が仕切り、まず北京市を代表して保守派の李錫銘書記が情勢報告。ついで李鵬が「政治局常務委員会代表」として演説に立った。中山服の胸ポケットには万年筆。しっかりと両手で書面を持ち、一字一句も読み間違えしないぞという風にマイクの前に立った。5月20日付『人民日報』で演説のさわりを再現するとーー。

「皆さん、いまこそ立ちあがり、断固とした効果的のある策をとり、旗幟鮮明に『動乱』を制止し、正常な社会秩序を回復させ、安定団結を維持し、それによって改革開放と社会主義現代化建設の順調な前進を保証しょう」

   まずこう呼び掛け、北京の現状はやはり「動乱」であると強調。なぜ首都に建国以降初の戒厳令を発しなければならないか、その理由を述べた。

「いまやますますはっきりとしてきたが、ごく少数、きわめて少数の者たちが、この動乱をとらえて彼らの政治目的を達成しようとしている。これはすなわち中国共産党の指導性を否定し、社会主義制度を否定するものである。彼らは『ブルジョア自由化反対』を否定するスローガンを大っぴらに叫んでいるが、その目的は、『四つの基本原則』に反対し、自分たちの思うような絶対的自由を勝ち取ろうというもくろみである。彼らは大量のデマを撒き散らし、党と国家の主要な指導者たちを攻撃、中傷、罵倒している。いまや、その矛先を改革開放の事業に強大な貢献をしている鄧小平同志に集中させている。その目的は組織的に中国共産党の指導を転覆させ、人民代表大会を通じて合法的に誕生した人民政府を転覆し、人民民主主義独裁を徹底的に否定することだ。これは中国に反対派、反対党を樹立するための基礎を作ろうとするものである」

学生にハンスト中止をよびかけ

   そして「党と国務院を代表して緊急の呼びかけを行う」として、2つ行動を求めた。
   (1)いまだに天安門広場で絶食(ハンスト)を行っている学生は、直ちに絶食を中止し、広場から離れ、治療を受けるよう希望する。
   (2)広範な学生諸君と社会各界の人々は一切のデモ活動を即時に停止し、人道主義から出発し、絶食学生にいわゆる「声援」を送るような行為をやめよう。動機のいかんを問わず、「声援」を送ることは、彼らを破滅の道に追い込むだけである。

   続いて中央軍事委員会副主席も兼務する楊尚昆国家主席が演説。「軍隊の動員は首都の 治安維持と秩序回復のためで、学生鎮圧が目的ではない」という主旨の講話を 行った。二人の演説からは、まずはなにより学生たちのハンストを中止させ、 天安門広場から撤退させようという保守・強硬派の指導者たちも考えていた「願 望」が読みとれた。

   また李鵬演説には、何らかの政治的意図を持った「ごく少数の者」と愛国的熱情から行動に立ち上がった「学生」を区別するという、共産党がしばしば用いる論法が見られた。

   このテレビ放送をホテルで見ていた私は「来るべきものが、ついに来たか」と思った。建国以来初という戒厳令が出されることになった首都北京。「今夜、何が起きるか、見ておかねばなるまい」と深夜の街へ出た。(次回「下」に続く)

加藤千洋さん

加藤千洋(かとう・ちひろ)
1947(昭和22)年東京生まれ。平安女学院大学客員教授。東京外国語大学卒。1972年朝日新聞社に入社。社会部、AERA編集部記者、論説委員、外報部長などを経て編集委員。この間、北京、バンコク、ワシントンなどに駐在。一連の中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。2004年4月から4年半、「報道ステーション」(テレビ朝日系)初代コメンテーターを担当。2010年4月から、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。2018年4月から現職。
主な著訳書に『北京&東京 報道をコラムで』(朝日新聞社)、『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波現代文庫)、『鄧小平 政治的伝記』(岩波現代文庫)など。
日中文化交流協会常任委員、日本ペンクラブ会員、日本記者クラブ会員。