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稀勢の里の強行出場、なぜ師匠は「背中を押す」しかなかったのか 背後には「角界の番付社会」が

   大相撲の横綱稀勢の里が2018年11月15日、九州場所5日目から途中休場することを発表した。完全復活を目指した九州場所では初日から4連敗を喫し、4日目の取組後、師匠の田子ノ浦親方(元幕内・隆の鶴)と話し合い休場を決めた。稀勢の里によると、初日の貴景勝(千賀ノ浦)との一番で右膝を痛めたことが、休場の直接の原因だという。

   横綱の初日からの4連敗は、昭和6年春場所の宮城山以来87年ぶりとなる不名誉な記録。進退のかかった先場所で10勝を挙げたとはいえ、番付上位の力士には負けが込み、相撲内容は横綱のものではなかった。今場所は初日から土が付き、先場所以上に深刻な事態にあったにもかかわらず、なぜ稀勢の里は4日目まで土俵に上がり続けたのだろうか。

   角界は横綱を頂点とする番付が全ての世界である。給与は関取と呼ばれる十両以上の力士のみに支払われ、履き物、着物、帯など番付によって使用出来る素材が異なる。電車や飛行機の移動の際の待遇も異なり、部屋での食事は番付上位の者から箸を付けるのが習わしとなっている。

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協会での出世も現役時代の番付次第

   引退後に親方になっても現役時代の番付は大きな影響力を持つ。力士出身でない初代理事長の廣瀬正徳氏を除き、これまで12人の親方が協会の理事長職に就いたが、9人の親方が元横綱だ。協会の要職に就くスピードも元横綱と、大関以下では大きな差がある。

   稀勢の里が3連敗を喫した翌日の朝、師匠の田子ノ浦親方(元幕内・隆の鶴)は「昨日話をしました。本人が頑張ると言うので、背中を押すしかない」と4日目の出場を明言した。ただ、この言葉の中に師匠の意志は見られず、稀勢の里の意志を尊重したに過ぎなかった。

   田子ノ浦親方は、鳴戸部屋で稀勢の里の兄弟子で、師匠の鳴戸親方(元横綱隆の里)の死去により部屋を継承した。かつての兄弟子は、角界の頂点を極めた弟弟子を必要以上に気遣った結果、休場の決断が鈍ったのだろうか。

   かつて大相撲を取材していた時、元大関のある親方に、横綱の取組について意見を求めたことがある。記者の質問に対して、その親方は「私は横綱になったことはないので、横綱の気持ちは分からない。横綱の取組に意見することなど私には出来ない」とコメントを断られた経験がある。元大関ですら横綱に意見することをはばかられる。角界の厳しい番付社会を垣間見た思いだった。

   今場所の稀勢の里の行動を見ていると、どうしても鳴戸親方の現役時代に重なってしまう。当時横綱の鳴戸親方は、1984年九州場所から4場所連続で休場した。85年名古屋場所で10勝を挙げて復活するが、翌秋場所では初日から2連敗を喫して3日目で休場した。

   九州場所では4日目まで1勝3敗で、5日目から休場。この休場で進退問題に発展したが、鳴戸親方は現役続行を表明し、翌年初場所に進退をかけて臨んだ。すでに体力、精神的に限界を迎えていたのだろうか、初場所初日に保志(のちの北勝海、現八角親方)に敗れて現役を引退した。

引退したくても出来なかった鳴戸親方

   連続休場から復活、そして休場の一連の流れは稀勢の里と重なるところが多いが、一点、大きく異なることがある。鳴戸親方は、休場中に当時の師匠である二子山親方(元横綱初代若乃花)に引退の旨を伝えていたという。だが、当時の角界の状況がこれを許さなかった。

   鳴戸親方が横綱に昇進した当時、横綱は北の湖、千代の富士と鳴戸親方の3人だったが、北の湖が晩年で、その北の湖は85年初場所に引退。鳴戸親方がこれに続いて引退すれば、千代の富士の一人横綱となってしまう。そのため、二子山親方は2度にわたる鳴戸親方の引退の申し入れを受け付けなかったという。

   横綱は現役引退によってのみその地位から降りる。だからこそ、横綱はその地位にふさわしい品格と抜群の力量を要求される。87年ぶりの初日からの4連敗は、横綱の品格が問われかねない不名誉な記録であり、角界の悪しき前例にもなりかねない。

   もし、鳴戸親方が稀勢の里のそばにいたら、どのような言葉をかけたのだろうか。3日目の休場か、4日目まで出場させるか。どちらが正解かは誰も判断できないが、そこには必ず鳴戸親方の意志があったに違いない。

(J-CASTニュ-ス編集部 木村直樹)