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加藤千洋の「天安門クロニクル」(12)
ついに首都に戒厳令(下)緊迫の実施前夜

   戒厳令前夜の5月20日未明も私の取材の足は自転車だった。北京に長期滞在中にホテルは4か所転々としたが、この時は北京駅から北へいった長安街角の国際飯店を拠点にしていた。

   メモ帳に断片的な記述が残っていたので、それを手掛かりに自分の行動を必死で思い出すと――。

  • 天安門広場には「敢死隊」(決死隊)と書いた鉢巻きを巻く学生たちも登場した
    天安門広場には「敢死隊」(決死隊)と書いた鉢巻きを巻く学生たちも登場した
  • 天安門広場には「敢死隊」(決死隊)と書いた鉢巻きを巻く学生たちも登場した
  • 王府井大通りの電柱に張り出されポスターは、兵士に「銃口を人民に向けるな」と呼びかけている

私のメモが伝える未明の緊迫

・AM2時30分:まずは最寄りの 北京駅へ向かう。
   夜が更けてからも駅前広場は旅行客や客引き、人力車などでにぎわう。いつもの風景で、とくに変わった状況はない。

・3時:西へ走って宣武門の交差点へ。
   メモ帳には「学生支配」「なわが張ってある」「快走」「センターラインの鉄サクでバリケード」「笛の音」などとある。
   宣武門は天安門広場のやや東で、バスやトロリーバスの路線が輻湊し、地下鉄駅もある市内中心部の交通の要衝の一つ。学生らは動員された解放軍(戒厳部隊)が中心部へ進駐する際には通過する可能性の高い地点と見て、先手を打って交差点にバリケードを築き、手旗や笛を吹くなどして自主的な交通管制を始めていたのだ。自転車に乗った怪しげな風情の私は「快走」(早く行け!)と追い立てられたのだろう。

・時間不明:天安門広場の西方、復興門の北京放送局の周辺へ。
   ここも第2環状線と東西のメーンストリート長安街、その西への延長線の復興路の交差点という要衝だ。相当数の群衆が集まっており、「ワーッという喚声」「政変の夜」「トラックの上、インターの合唱」「回りはすずなりの人」などのメモ。未確認だが、「トラック」というのは市西部から向かってきた軍の車両で、進行を阻止され、その上に群衆が乗っかり、気勢を上げていたのかもしれない。

・AM4時:天安門広場に到着。
   まだ夜明け前で、多分10万人を超えていたはずの学生らの姿は暗闇にまぎれてよく見えなかった。
   東西500m、南北800mの周囲にある街路灯に取り付けられたスピーカーが李鵬演説を大音声で繰り返して流していた。
   「皆さん、いまこそ立ち上がり、効果のある策をとり、旗幟鮮明に『動乱』を制止し、社会秩序を回復させねばならない......」
   「愛国無罪」の鉢巻きをした地方の大学からやってきた学生が「空っぽの話だ。我々の要求に何も答えていないばかりか、再び『動乱』と規定した。民心とかけ離れている。汚職役人を代表するものだ」と吐き捨てた。

・AM4時30分:同
   米国のテレビ局クルーが照明をたくと、学生の姿が浮かび上がり、周辺から次々と声が上がる。
   「民主万歳、自由万歳」
   「李鵬、下台(辞めろ)!!、李鵬、下台」
   拡声器から流れる李鵬演説が終わる。最後に力を込めて「社会主義現代化の事業を絶えず前へ進めるために努力し、奮闘しよう」という部分には、学生からも大きな拍手が沸いた。もちろん皮肉を込めた反応だろうが。
   実際に戒厳令が発令されたのは20日午前10時を期してだったが、その5時間ほど前には、広場の学生らには追い詰められたというような緊迫感は感じられなかった。
   しかし戒厳部隊の接近情報が入ると、広場の学生放送局が逐一報告する。
   「北沙窩(北京の東北郊、北京空港の南)に約200台の軍用車が姿を見せた」
   「公主墳(北京西部のロータリー)に軍用車150台ほど確認」

・AM5時すぎ:同
   夜が白み始め、広場東の革命博物館(現在は国家博物館)の上のかなたの空が朝焼けに染まる。西側の人民大会堂の窓に明かりがつく。学生放送局がベートーベンの交響曲「第九」を流す。学生が立ち上がり大合唱になる。赤旗が大きく振られたシーンは記憶にある。
   この戒厳令前夜の20日未明から早朝にかけての緊張感の増す北京の状況を学生リーダーの一人、北京大生の王丹はこう書きとめている。
   「五月二〇日の夜明け、北京郊外の各主要道路の入り口付近の住民と大衆は、自発的に街頭に出て人垣を作り、市街に進駐する部隊の道をふさいだ。早朝三時、北京第二外語学院の学生五〇〇人がトラック四両に乗って六里橋(注・北京西南郊)に赴き、軍用車を阻んだ。ここで一五〇両が立ち往生した。午前九時三〇分、六里橋、八角村(注・北京西郊)、豊台(注・北京西南郊)で、警官は多くの人たちを警棒で叩いて傷つけた。老山(注・北京西郊)では、労働者と兵士が衝突し、軍隊が催涙弾を使用した」

軍は十数万人を動員

   さらに「耳にした情報」として、こう書き残している。

「戒厳の任務を執行する解放軍の兵士たちは、すでに一週間まえから、テレビを見たり、ラジオを聞いたり、新聞を読んだりするのを許されていなかった。『四・二六社説』だけには目を通していたが、そのため群衆の鎮圧を執行するという任務すら知らなかったという」(王丹『中華人民共和国史十五講』)

   全国の人民解放軍は、当時は7つの軍区に分かれていたが、動員されたのは首都のおひざ元の北京軍区、南に隣接する済南軍区、北に隣接する瀋陽軍区の3軍区の将兵十数万人。部隊は「党・政府・軍幹部大会」が開かれる数時間前に駐屯地を出発し、一部は民衆の阻止行動で阻まれはしたが、主要部隊は迂回、陽動作戦を使って19日午後8時~9時までに北京市の四方から、中心部から少し離れた第3環状線付近の所定の位置に到達していた。

   学生運動には柔軟に対処しようとする立場を堅持した趙紫陽、胡啓立らに対し、鄧小平を筆頭とする長老派、李鵬、姚依林ら強硬派指導者は、趙の追い落としと並行し、戒厳令の施行の準備を着々とすすめていたのだ。(次回は「最終決断は『ドン』だった」上)

加藤千洋さん

加藤千洋(かとう・ちひろ)
1947(昭和22)年東京生まれ。平安女学院大学客員教授。東京外国語大学卒。1972年朝日新聞社に入社。社会部、AERA編集部記者、論説委員、外報部長などを経て編集委員。この間、北京、バンコク、ワシントンなどに駐在。一連の中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。2004年4月から4年半、「報道ステーション」(テレビ朝日系)初代コメンテーターを担当。2010年4月から、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。2018年4月から現職。
主な著訳書に『北京&東京 報道をコラムで』(朝日新聞社)、『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波現代文庫)、『鄧小平 政治的伝記』(岩波現代文庫)など。
日中文化交流協会常任委員、日本ペンクラブ会員、日本記者クラブ会員。