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加藤千洋の「天安門クロニクル」(13)
最終決断は『ドン』だった(上)8年後に訪れた「Xデー」

   北京西郊の五棵松に建つ中国人民解放軍総医院(通称301病院)は北京で、いや全国でも最先端の設備が整う病院だといわれていた。天安門事件から8年近くたった1997年2月19日の深夜、私はその大病院の裏門近くで寒気とたたかっていた。

   北京は旧暦で新年である春節の前後が一年でも最も寒いとされる。その年の春節元旦は2月7日であった。寒さは若干緩んだとはいえ、私は厚手の皮コートとマフラー、毛糸の帽子、そして手袋という重装備だった。時計の針は10時を回わり、寒さが足元から這い上がってきたが、そんなことを忘れさせるような刺激的な光景が眼前で展開していた。

  • 最新設備が完備した中国人民解放軍総医院(通称301病院)の表門。警備兵が出入りをチェックする
    最新設備が完備した中国人民解放軍総医院(通称301病院)の表門。警備兵が出入りをチェックする
  • 最新設備が完備した中国人民解放軍総医院(通称301病院)の表門。警備兵が出入りをチェックする
  • 重要会議が開かれた私邸で孫ら家族とくつろぐ鄧小平。娘の鄧琳が撮影し、鄧没後の1989年6月に公開された

鄧小平の死を急報

   裏門近くにある高級幹部用の特別病棟(通称『将軍楼』)には鄧小平が入院しているとの情報を得ていた。その病棟に向かう高級車が続々と裏門をくぐる。「甲A」で始まるナンバーから、党中央の幹部用車や軍の車だとわかった。

   同じ車が15分ほどで帰ってゆく。この状況から、私は最高指導者(ドン)の死の急報を受けた高級幹部たちが最後のお別れに駆け付けた、と判断した。

   寒さでなく興奮による足の震えを腹にぐっと力を入れ、できるだけ冷静な声を装い、携帯電話で朝日新聞東京本社の外報部デスクに連絡した。

「どうやら『Xデー』が来たようです」

   鄧小平の死去(Xデー)に備えていた予定稿をいよいよ使ってもらってよい。かねてデスクと打ち合わせしていた、それが相図だった。午後11時(日本時間午前零時)を少し回った頃だったか。予定稿とは予測される重要事態に備えて大枠を準備しておく原稿のことで、前任者のころから準備がされ、それにいま見ている光景などを付け加えればよい。

   ふと我に返ると、周辺には寝巻の上に綿大衣(綿入れの外套)をはおった付近の住民ら十数人がいただけで、内外の同業者らしき姿はない。正直に告白すれば、「これは特ダネにできるかもしれない」という思いが頭をよぎった。

   かつてない規模の民主化要求運動の盛り上がった首都北京に、建国後初の戒厳令の施行、そして武力鎮圧で強行突破。不安定な過渡期を乗り切って再び改革開放路線に勢いをつけた革命後第2世代の最高指導者は、悲願としていた香港返還をあと数カ月で目にする前に、波乱の92歳と6カ月の生涯を閉じた。

   「蓋棺論定」という言い方が中国にも日本にもある。人間の真価は死後にはじめて定まるという意味である。

   結果的に「300数人」と発表されている犠牲者を出した武力鎮圧の決断を下した最高指導者として、政治家・鄧小平の評価はどのように定まったのか。少なくともこの点はまだ定まっていないのではないか、と私は思う。

「密室の政治」の実態はこうだった

   天安門広場で座り込み、ハンストを続ける学生らを排除するためには人民解放軍の動員しかない。反対する趙紫陽を総書記ポストから排除するのもやむを得ない。一連の最終判断は、まぐれもなく『ドン』が下したものだった。

   その経緯を共産党の最高議決機関である政治局常務委員会の動きに注目して整理してみよう。それに『天安門文書』『趙紫陽極秘回想録』『鄧小平年譜1975-1997』上下(2004年、中央文献出版社)などを参照した。

   5月16日夜:趙紫陽・ゴルバチョフ会談後、政治局常務委員会の緊急会議を趙紫陽が招集。5人の常務委員と長老2人(楊尚昆、薄一波)が出席。
   趙は5人の連名で学生のハンスト中止を求める声明を検討し、運動を「動乱」と規定して学生が猛反発した4月26日『人民日報』社説の判断の修正をはかる意図だったが、李、姚と長老2人は「北京はもはや無政府状態」「深刻な困難にある」と猛反発。結論が出ず、翌日、議論の内容を鄧小平に報告し、長老らの見解を求めることになる。

   5月17日朝:鄧小平私邸で政治局常務委員会。李鵬が、趙紫陽の5月4日のアジア開銀(ADB)総会での講話が局面を一層悪化させたと厳しく批判。鄧が李の判断を肯定した上で口を開いた。
   「わたしは人民解放軍を投入して北京に戒厳令を発令する結論に達した」「わたしはきょうこのことを政治局常務委員会におごそかに提案したい。各位におかれては。これを十分検討されるよう希望する」
   趙は「小平同志、わたしはこの計画の遂行はできかねる。困難がある」とひとこと反論するのがやっとだった。
   同日夜:党本部所在地の中南海で政治局常務委員会を続開。常務委員5人と2人の長老。戒厳令の必要性をいま一度検討し、最終的に挙手で態度を表明。反対2人(趙、胡)、賛成2人(李、姚)、喬石は棄権。政治局常務委員会は完全に二つに割れ、最終結論は鄧の判断にゆだねることに。
   趙は体調不良(低血圧症など)を理由に「総書記辞意」を表明する。

   5月18日朝:鄧の私邸に趙をのぞく常務委員4人と、八老(パーラオ)と称された長老8人(鄧小平、陳雲、李先念、彭真、鄧頴超、楊尚昆、薄一波、王震)、中央軍事委員会幹部が顔をそろえる。このころ欠席した趙は辞表を準備していた。八老が口々に危機感を表明した。
   鄧小平「われわれは全員、病気になるほど心配している......われわれには戒厳令が必要だ」
   李先念「問題は党内にある。党にはふたつの司令部がある......(趙紫陽は)これが動乱だとは全然感じていない。これが、第二司令部が出現したいわれだ」
   陳 雲「数十年にわたる闘争と多数の革命烈士の鮮血で勝ち取ったわが人民共和国を、たった一日で打ち壊してしまうことになる」
   薄一波「学生運動の背後にいる下心のある者たちはアメリカとヨーロッパ、それに台湾にいる国民党の反動たちから支援を受けている」

   5月19日夜:趙紫陽に代わって李鵬が政治局常務委員会を代表して「党中央、北京市の党・政・軍の幹部大会」で北京市に戒厳令発令を決定。

   5月20日午前:再び鄧私邸に長老たちが集合。鄧が趙紫陽を解任し、後任に上海市書記・江沢民(政治局員)をあてるとの提案を行う。

   以上から読みとれるのは――。

   まず中国共産党の最高決定機関とされる政治局常務委員会など重要会議が鄧小平の「私邸」で開かれていることに驚く。その場に「現役引退」したはずの革命元老が列席(採決には不参加の出席者)し、意見を開陳。そして重要事項の最終判断は党中央委総会の「秘密決議」のお墨付きを得た『ドン』が下す。

   党の『憲法』とされる党規約を遵守したとは思われない手続きで、わずか2年半の間に、一度はポスト鄧小平の指導者に擬せられた胡耀邦、趙紫陽があっさりと総書記の座から追われる。

   これぞ天安門事件当時の中国共産党の「密室の政治」の実態なのである。(次回「下」に続く)

加藤千洋さん

加藤千洋(かとう・ちひろ)
1947(昭和22)年東京生まれ。平安女学院大学客員教授。東京外国語大学卒。1972年朝日新聞社に入社。社会部、AERA編集部記者、論説委員、外報部長などを経て編集委員。この間、北京、バンコク、ワシントンなどに駐在。一連の中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。2004年4月から4年半、「報道ステーション」(テレビ朝日系)初代コメンテーターを担当。2010年4月から、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。2018年4月から現職。
主な著訳書に『北京&東京 報道をコラムで』(朝日新聞社)、『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波現代文庫)、『鄧小平 政治的伝記』(岩波現代文庫)など。
日中文化交流協会常任委員、日本ペンクラブ会員、日本記者クラブ会員。