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加藤千洋の「天安門クロニクル」(14)
6・4へのカウントダウン(上)緊張と倦怠感

   5月20日に首都北京に建国後初の戒厳令が敷かれてから、共産党機関紙『人民日報』は1面で「北京戒厳 第○日」という連載を始めた。さほど大きくはないが囲み記事の目立つ扱いで、22日は「第2日」、23日は「第3日」、24日は「第4日」というように続いた。

  • 『人民日報』一面で連載が始まった「戒厳発令から○日」の記事
    『人民日報』一面で連載が始まった「戒厳発令から○日」の記事
  • 『人民日報』一面で連載が始まった「戒厳発令から○日」の記事
  • ハンストが続く広場では、衰弱した学生が病院に運ばれる光景が目撃された

平静伝える『人民日報』連載

   カウントダウンというのは、あるきまった出来事まで秒数や日時を数えるものだが、この場合、天安門広場への戒厳部隊の突入日があらかじめ決まっていたとは思われないので、いつまで続けるのか。やや気になる連載ではあった。

   ちなみに22日付け「北京戒厳 第2日」は次のような内容だった。

   「国務院が北京の一部地区に実行する戒厳令が効力を発してすでに40数時間。市政府が決めた戒厳地区では以前のような突発事態は見られない」。おおむね事態は平静であると伝えた。

   広場は「平和を請願する首都と地方から駆け付けた多数の学生が肩を並べて座り込んでいる」「そこへ100メートルもない低空で軍用ヘリ数機が何度も飛来。李鵬総理演説を大活字で印刷したビラをしきりに散布するや、大きな騒ぎが起きた」などと報じている。

   また郊外へ向かう幹線の交差点が障害物でふさがれ、公共バスとトロリーバスの運行は2日間ストップしているが、メーンストリートの長安街は市民の手で交通秩序が維持されていること。新聞社には「新聞が届かない」「牛乳の配達が滞っている」など市民から苦情電話が寄せられているなど、暮らしへの影響にも触れている。

   「第4日」になると、市内100余りのバス路線もほぼ回復し、天安門広場周辺を含めて商店街は平常通りの営業が回復したなど、市民生活も落ち着きを取り戻し、「第5日」には「全市の生活秩序は正常に」としている。

   では学生たちは――。

   早朝起き出すと、まず放送局が流す大音量の国歌を耳に国旗を掲揚。次に広場と周辺の掃除が日課となった。時には市の清掃職員と一緒に伝染病を防ぐために消毒薬を散布する。運動の長期化であちこちのごみの山が異臭を放つ事態となっていた。

   5月23日は雷を伴う大雨となったが、午後から数十万人規模のデモがあり、隊列に著名な知識人らが加わったことも報じられた。だが戒厳令発動の責任者、李鵬首相の解任要求と戒厳令撤廃が叫ばれたことは触れられなかった。

   これも『人民日報』は報じなかったが、「第3日」の23日未明に高自聯(北京市高校〔大学〕学生自治聯合会)が各大学代表による会議を招集し、「天安門広場臨時指揮部」の成立を決定。代表の総指揮には海外メディアが「天安門のジャンヌダルク」と称した北京師範大学の女性院生、柴玲が選ばれた。以後、指揮部が広場での全活動の責任を負うことになった。

   「戒厳令下の日々」が続く中、当初は緊張感がみなぎっていた広場にも徐々に弛緩した空気が感じられるようになった。同時に「撤退か否か」をめぐる内部対立も顕在化し、主導権争いとみられる暴力沙汰や集団間の小競り合いも生じた。

   正直に言えば私も長期取材に倦む気持ちが生じていたが、広場通いはなんとか続けた。戒厳令後のある日、知り合いの日本人留学生の手も借り、なるべく多くの広場の学生にインタビューしようと試みた。

   戒厳令の発令直後、軍が使用するかもしれない催涙弾に備え、学生にはマスクが配布された。それを胸に下げ、着替えを入れたリュックを背負った北京工業大学2年の男子学生は、李鵬首相に非難が集中する理由を語った。

「(5月20日夜に戒厳令実施を決めた)李鵬演説は何ら法律に基づくものではない。李鵬は政府の代表であって、軍の統帥者ではない。われわれ学生たちの運動は初志貫徹。最後まで、死ぬまでやりぬく決意です」

   広場の学生放送局でアナウンサーを担当し、ハンスト闘争を続ける北京放送学院4年の男子学生は担架に身を横たえたままで口を開いた。

「李鵬は人民を敵とみなした。私たちは人民の手に民主政治を取り戻したいと言うのが願いだ。そのためには政権上層部にいる改革派の人々に行動を起こしてほしい。学生たちも疲弊していて、二つの動きがある。一つは『貫徹派』。もう一つは『譲歩派』。後者は大学に戻って運動を続けようと提案している。でもいま一番肝心なことは何か。それは民衆が我々学生の味方だと言うことだ。一緒になって戒厳軍の侵入を阻止してくれた。事態収拾のためには全人代(全国人民代表大会)を開いて李鵬らを罷免できるといいのだが、どうやって全人代が開催できるか.実はよくわからない」

「自主管理」をなんとか続けてきたが

   天安門広場の運動で特筆すべきことの一つは、常に数万人から30万人という小都市並みの人口が密集した空間が、学生の「自主管理」でなんとか秩序が保たれてきたことだ。だが一か月を超えると、異臭が漂う広場全体に疲労感がにじんでいたのも確かだ。

   22日現在で全国319大学からの学生が集まっていた広場は3つのゾーンに分かれていた。ハンスト闘争が続くテント村。医大や病院関係者によるボランティア医療隊の活動拠点。それに雨天の際のシェルターになる百台ほどのバスの駐車場。戒厳令後は女子学生をできるだけ大学に戻す方針がとられ、「糾察隊」と呼ぶピケ隊員が増やされた。その1人、東北の瀋陽から来た1年生の男子学生は市民から差し入れられたキュウリをかじりながら答えた。

「テレビで北京の様子を見て、いてもたってもいられず、夜行列車で13時間かけて来た。財布には80元しかなかったが、広場ではほとんど金は使っていない。市民のカンパのおかゆ、肉マン、たまごが食べられる。広場にいる数十万人の心が一つになっているのを感じている」

   郊外で足止めされる戒厳軍がいつ動くのか。不安を抱えつつ、学生も多くの市民も平和裏に事態収拾する道はないのかと模索を続けた。そうした中で、学生の一人も口にした「国家の最高権力機関」とされる全人代(全国人民代表大会)を活用できないか、という構想が浮上した。(次回「下」に続く)

加藤千洋さん

加藤千洋(かとう・ちひろ)
1947(昭和22)年東京生まれ。平安女学院大学客員教授。東京外国語大学卒。1972年朝日新聞社に入社。社会部、AERA編集部記者、論説委員、外報部長などを経て編集委員。この間、北京、バンコク、ワシントンなどに駐在。一連の中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。2004年4月から4年半、「報道ステーション」(テレビ朝日系)初代コメンテーターを担当。2010年4月から、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。2018年4月から現職。
主な著訳書に『北京&東京 報道をコラムで』(朝日新聞社)、『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波現代文庫)、『鄧小平 政治的伝記』(岩波現代文庫)など。
日中文化交流協会常任委員、日本ペンクラブ会員、日本記者クラブ会員。