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加藤千洋の「天安門クロニクル」(15)
政治空間としての天安門 (上)撤退か、留まるか

   全国人民代表大会(全人代)の緊急会議招集の道も閉ざされ、天安門広場の運動は方向性を見失いかけているように見えた。

   北京の大陸的な気候も追い打ちをかけた。真夏のような烈日が照りつけたかと思えば、突如襲う暴風雨がテントを宙に巻き上げた。泥を含んだ雨を浴びた私は、安物ではあったが背広一着を台無しにしてしまった。

   地方の大学から「遅れてやってきた学生」が赤旗やのぼりを持ち込み、一見、広場は活気を取り戻したかのように見えた。だが精神的、肉体的ダメージが蓄積した学生たちの表情からは消耗していることが読み取れた。

   当時は知る由もなかったが、運動資金も底をついていたようだ。求心力を失いかけたリーダーたちは膠着状態を打開すべく、知識人の支援グループや労働者有志らと意見交換を重ねていた。

  • 天安門から消えたことがない毛沢東の肖像画
    天安門から消えたことがない毛沢東の肖像画
  • 天安門から消えたことがない毛沢東の肖像画
  • 人民英雄記念碑台座にはアヘン戦争以降の「人民戦争」と「人民革命」の犠牲者を記念するレリーフが刻まれている

土壇場で覆された撤退案

   そんな最中に大胆な提案が飛び出した。

   座り込みを終了し、広場から撤退を――。

   学生リーダーの中で、その風貌からして冷静さが際立っているように見えた北京大生、王丹が提案者だった。

   5月27日夜、広場臨時指揮部が外国メディアも含めた記者会見を開いた。その席で「高自聯」「北京労働者自治聯合会」「首都各界愛国護憲聯合会議」など運動中に立ち上がった組織のいくつかを代表し、次のように提起した。

「5月30日に座り込みを打ち切り、天安門広場を引き払う」
「5月30日には北京全市で大規模デモを組織し、4月27日を公の記念日に定めるよう呼びかける」

   「4月27日」とは前日の『人民日報』が「動乱社説」を掲載し、反発した学生が空前の規模の抗議デモで答えた日である。(王丹『中華人民共和国史十五講』535頁)

   提案はいったん満場一致で承認されたが、後になって広場臨時指揮部の代表で総指揮の柴玲(北京師範大院生)や、彼女の夫で副指揮、封従徳(北京大院生)らが態度を変え、結局は実現しなかった。

   いまさらながらだが、もしかしたら「激突シナリオ」を回避できたかもしれない道は、学生たちの手で閉ざされたのである。

   土壇場で意見を翻した柴玲は「広場こそ私たちの唯一の拠点です。失えば保守が勝利するのです」と語り、封従徳は「なぜ広場にとどまったか? 目的は民衆を起こすこと。天安門は人民共和国のシンボル。そこで行動を起こせば、国民全体にアピールできる」と、反対した理由を説明している。

   これは米国のリチャード・ゴードン、カーマ・ヒントンが1995年に共同制作・監督したドキュメンタリー映画『天安門』(原題は「THE GATE OF HEAVENLY PEACE」)に記録された2人の発言である。

   そこからは現代中国政治における天安門広場の位置づけ、その政治的な象徴性がいかに重要なものであるかが読みとれる。

シンボルとしての天安門広場

   そこで運動の主舞台となった天安門と、その南側に広がる天安門広場について改めて触れておきたい。

   典型的な中国式宮廷建築である天安門の楼閣は明・清両王朝の皇城・紫禁城の正門だ。建物中央の朱塗りの門は皇帝が重要行事で紫禁城を離れるときのみしか開かれなかった。(ウー・ホン著『北京をつくりなおす 政治空間としての天安門広場』2015年、国書刊行会)

   1949年10月1日午後3時すぎ、革命闘争を勝利に導いた毛沢東は中華人民共和国の誕生を高らかに宣言した。建国宣言の場として、やはり天安門楼上を選んだ。「旧中国」の象徴を否定せず、「新中国」でも使ったのである。

   ただし政治的な意味合いが転換したことを示すため、今日まで中央門の上に巨大な毛沢東肖像画が掲げられている。

   初めて肖像が登場したのは建国前の1949年2月14日の「慶祝北平和平解放大会」。まだ北京は国民党時代の北平と呼ばれていた。この時の毛は軍服姿で描かれていた。中国メディアによると図柄は現在まで8回変更されている。

   さて天安門広場は東西500メートル、南北880メートルの広々とした空間。だが王朝時代から存在していたわけではない。建国記念式典の際は約30万人を収容できるT字型の空間はあったが、現在のような100万人収容が可能という大空間はなく、おまけに名前もついていなかった。

   正式に「天安門広場」と呼ばれ、「人民共和国のシンボル」として拡大されたのは建国10周年の1959年のことだった。

   周りには巨大建築物が1年足らずの突貫工事で建設された。西側に人民大会堂。東側には革命博物館と歴史博物館(現在は統合されて国家博物館に)。中央には高さ37メートルの人民英雄記念碑が建てられた。その正面には毛沢東が揮毫した「人民英雄永垂不朽」(人民の英雄は永久に不滅である)との言葉が周恩来の筆跡で刻まれた。 それから30年――。

   政治民主化を求めて立ち上がった学生らは運動の拠点を英雄記念碑に定めた。そして6月4日未明、小銃を構えて完全装備で接近する戒厳軍兵士に対し、撤退する最後の瞬間まで学生や市民がとどまったのも、この碑の周囲だった。

   こうした経緯を考えれば、柴玲をはじめ多くの運動参加者たちが天安門広場に強くこだわった理由は、理解できないこともない。

   一時は天安門広場の占拠という形の運動に終止符が打たれる可能性があった5月30日朝、中国共産党による「官製」の政治空間である天安門広場に、それとは異質の意味を持つ政治的シンボルが姿を現した。

   芸術系大学学生が制作し、夜間に運び込まれた「民主の女神像」である。両手でたいまつを掲げる女性を表現した像は高さ8メートル近くもあり、それが天安門の毛沢東肖像と向き合う位置に据えられた。

   学生の責任者3人は天安門地区管理委員会によって連行されたが、女神像は残った。6月4日に戒厳軍に取り壊されるまで5日間の短命だった。それでも新たなシンボルは学生を再び奮い立たせる効果があった。

加藤千洋さん

加藤千洋(かとう・ちひろ)
1947(昭和22)年東京生まれ。平安女学院大学客員教授。東京外国語大学卒。1972年朝日新聞社に入社。社会部、AERA編集部記者、論説委員、外報部長などを経て編集委員。この間、北京、バンコク、ワシントンなどに駐在。一連の中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。2004年4月から4年半、「報道ステーション」(テレビ朝日系)初代コメンテーターを担当。2010年4月から、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。2018年4月から現職。
主な著訳書に『北京&東京 報道をコラムで』(朝日新聞社)、『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波現代文庫)、『鄧小平 政治的伝記』(岩波現代文庫)など。
日中文化交流協会常任委員、日本ペンクラブ会員、日本記者クラブ会員。