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加藤千洋の「天安門クロニクル」(17)
国内に留まるか、国外脱出か(上) 5年半後のニューヨークで

   やはり、どきっとする紙面だった。

   天安門事件から間もなく、『人民日報』をはじめ北京各紙が一斉に、学生指導者ら21名が全国指名手配されたことを顔写真、各人の簡単な紹介と身体的特徴などを添えて報じた。

  • 『人民日報』が掲載した学生指導者の指名手配書)
    『人民日報』が掲載した学生指導者の指名手配書)
  • 『人民日報』が掲載した学生指導者の指名手配書)
  • 1995年1月、ニューヨークに集まった在米の中国人民主化運動関係者たち)

王丹、吾爾開希(ウルケシ)、柴玲らが全国指名手配

   手配書のトップは王丹。次に吾爾開希(ウルケシ)。そして4人目が柴玲だった。この順番は当局が判断した、約50日間続いた民主化要求運動のリーダーとしての果たした「重要度」だったのだろうか。

   王丹については「24歳、吉林省出身、北京大学歴史学部、身長1m73、近眼」、ウルケシは「21歳、ウイグル族、北京師範大学教育学部、面長」、柴玲は「23歳、北京師範大学心理学部院生、丸顔、短髪、色白」とあり、彼女の夫の封従徳も13番目に「22歳、北京大学遠隔探査研究所院生」とリストアップされていた。

   運動が粉砕された後も国内に留まり声を上げ続けるか。だが容易にあぶり出され、厳しい処断が待つだけだ。一縷の望みにかけ、国外脱出を試みるか。それぞれ悩み抜いたに違いない。北京では6月10日までに400余人が警察と戒厳部隊に逮捕され、全国で運動関係者の捜索、拘束の嵐が吹き荒れていた。

   それから5年半後の1995年1月末の米国ニューヨーク。

   移民が多いことで知られるクイーンズ区のビル一室で、私は母国を脱出して米国にたどり着いた学生指導者たち数人と会う機会を得た。

   主催者が民主化運動にかかわる在米の関係者に集合を呼びかけたもので、ウルケシや沈彤らとは話ができたが、会えるかなと期待していた柴玲は姿を見せなかった。

   彼女の天安門事件後の行動はよくわからない。地下に潜り、しばらく国内に留まっていたようだ。ところが6月10日、香港のテレビ局がどうやって入手したのか彼女の肉声テープ(2日前に録画)を放送した。

「私は柴玲、天安門広場防衛指揮部の総指揮です。まだ生きています。6月2日から4日に天安門広場で何が起こったのか。それを語るに私ほどふさわしい人間はいないでしょう......」

   これでわかるように中国本土と香港の間には様々な地下ルートがあるようだ。ミャンマー、ラオス、タイなど東南アジアへ抜けるルートもある。雲南省からインドシナ半島を流れるメコン川(中国では瀾滄江)の舟運を使い、新疆ウイグル自治区のウイグル人や、北朝鮮からの脱北者も経由地の中国からの脱出に活用していることは、しばしば報道されている。 柴玲は事件10か月後の1990年4月に香港経由でパリに脱出した。その後、封従徳とは離婚。渡米して中国の民主化を支援する団体の援助を受けてプリンストン大学に学び、ボストンの広告会社に職を得た。だが1996年にハーバード大学ビジネススクールに再入学。しっかりMBAの資格を手に入れている。

   1995年冬のニューヨークの集会に話を戻そう。

   主催者は雑誌『北京之春』(英語名:Beijing Spring)の編集人だった劉青で会場は同誌編集部だった。中国伝統の春節(旧正月)に合せて呼びかけたもので、テーブルには手作りの餃子など新年を迎える料理が並んでいた。

   天安門事件以外の活動で亡命せざるを得なかったり、帰国できなくなったりした著名な作家や学者らも顔を揃えていた。写真の前列右から3人目がルポルタージュ作家の劉賓雁。その隣の小柄な老人が作家の王若望。その左隣が86年末の学生運動で理論的指導者とされた天文物理学者の方励之だ。さらに左端は日本でも翻訳作品が刊行され、大江健三郎とも交流があった作家の鄭義だ。

   後列が学生リーダーたちで、左から4人目の小柄な男性が劉青で、右から3人目がウルケシ、5人目が沈彤だ。

   『北京之春』は1982年に在米民主活動家、王炳章が月刊誌『中国之春』として創刊。1993年から現在のタイトルになり、2010年からはネット化され、現在は王丹が社長をつとめている。

   だが1995年1月末の集りに王丹の姿もなかった。彼は天安門事件後も国内に留まり、2度の獄中生活を送った。釈放されたのが1998年の春。その後米国に亡命し、ハーバード大学で博士号を取得した。前にも紹介したが、台湾の大学で一時教員を務めたが、現在は再び米国に戻ったようだ。

3人の大物、劉賓雁、王若望、方励之とは?

   何か「民主活動家列伝」になってしまったが、この日の出席者の大物3人、劉賓雁(1925年―2005年)、王若望(1918年―2001年)、方励之(1936年―2012年)にもぜひ触れておきたい。

   いずれも長い党歴を誇る共産党員で、反右派闘争、文化大革命で苦い体験があり、胡耀邦失脚につながった1986年末から87年初めの学生運動の際、ブルジョア自由化思想を煽ったとして3人同時に党を除名されている。

   天安門事件への関わり方はそれぞれで、共産党が陝西省延安を拠点にゲリラ戦を展開していた当時に入党した王若望の場合は、鄧小平に武力行使の自重を促す書簡を送ったことがあだとなり、逮捕されている。

   方励之も政治運動で一時党籍はく奪処分を受けたが、名誉回復後の1986年当時は安徽省合肥にある中国科学技術大学の副学長だった。その科技大を震源地に全国に拡大した民主化を求める学生運動で、ブルジョア思想を広めた「黒幕」と糾弾され、1987年に党を除名、公職を解かれた。

   1989年当時は北京天文台に職を得ていたが、天安門事件でまたもや「陰の指導者」と名指され、北京の米国大使館に妻の李淑嫻(北京大学で王丹を指導)と逃げ込み、1年余り大使館内で"幽閉"された後、やっと米中両国の話し合いが決着し、英国経由で米国へ。アリゾナ大学で教職に就いたが、2012年に客死している。

   もう一人、劉賓雁の場合は状況が少し異なる。1988年3月に米国のいくつかの大学から招聘され、カリフォルニア大学ロサンゼルス校、ハーバード大学を経て、1989年の天安門事件当時はプリンストン大学に滞在中だった。

   北京から届いた悲報に、彼は共産党指導部を痛烈に批判する談話を発表。これが原因で帰国出来なくなり、そのまま夫人と米国に留まった。

   私は80年代後半の北京特派員時代、鋭い筆致で幹部の特権濫用、腐敗などを暴くルポルタージュ作品を次々と発表する劉にぞっこんほれ込み、ぜひ一度、じっくり話を聞く機会がないものかと念願していた。

   ワシントンに滞在していた1995年1月、プリンストン大学にいた劉賓雁と電話で連絡が取れた。すると「近くニューヨークで我々の集会がある。そこで会おう」と約束してくれたのだ。

加藤千洋さん

加藤千洋(かとう・ちひろ)
1947(昭和22)年東京生まれ。平安女学院大学客員教授。東京外国語大学卒。1972年朝日新聞社に入社。社会部、AERA編集部記者、論説委員、外報部長などを経て編集委員。この間、北京、バンコク、ワシントンなどに駐在。一連の中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。2004年4月から4年半、「報道ステーション」(テレビ朝日系)初代コメンテーターを担当。2010年4月から、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。2018年4月から現職。
主な著訳書に『北京&東京 報道をコラムで』(朝日新聞社)、『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波現代文庫)、『鄧小平 政治的伝記』(岩波現代文庫)など。
日中文化交流協会常任委員、日本ペンクラブ会員、日本記者クラブ会員。