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加藤千洋の「天安門クロニクル」(18)
再考「流血の夜」 (上)いまだ疑念は拭えず

   30回目の「6・4」の記念日が近づき、連載も終盤を迎えた。そこで6月3日夜から4日朝にかけての「流血の夜」を、いまだに疑問が完全に払拭されていない犠牲者数や天安門広場では本当に死者が無かったのか、などを中心に再考しておきたい。

  • 陳希同・北京市長の1989年6月30日付報告書
    陳希同・北京市長の1989年6月30日付報告書
  • 陳希同・北京市長の1989年6月30日付報告書
  • 1989年6月5日付の朝日、読売、毎日の各紙朝刊1面

悪名高き報道官の死

   新聞の不思議の一つは、時として派手な見出しの大ニュースより、片隅のベタ記事が意外に印象に残ることである。昨年末、朝日新聞に載った北京発の10行余りの死亡記事もそれだった。

   90歳の高齢で亡くなった袁木の名は、天安門事件の取材を経験した者にとっては30年の時が流れても忘れられないし、その独特の風貌もすぐに脳裏に蘇ってくる。

   当時の肩書は国務院(政府)の報道官だった。民主化要求運動を「動乱」と断じた党と政府の立場を代表してメディアに登場。学生代表との対話の場でも抗議や要求を、薄笑いを浮かべてはぐらかした。事件後は犠牲者数を過少に発表したとして学生のみならず市民の間でも悪名を高めた党幹部である。

   政府スポークスマンという重要な役を担い、広場制圧2日後の6日に記者会見し、初めて政府の見解を明らかにした。

・我々は暴乱に対して勝利した
・人民解放軍将兵の負傷者5000余人、民間人(破壊行為を働いた暴徒と真相を知らない野次馬ら)の負傷者2000余人
初歩的統計で死者は300人近く、学生の死者はわずか23名である
天安門広場での死者は無かった

   以上の数字は、事態のすべて目撃したわけでない私にも、そして市民の多くも容易に受け入れ難い「公式見解」だった。

   案の定、そうした数はその後何度か差し替えられる。

   6月19日、党政治局拡大会議で北京市トップの李錫銘・党委書記が主要な病院、大学、軍、警察などの報告を「二重三重に確認した」という公式集計を明らかにした。

死者総数241人
・負傷者約7000人(5000人は戒厳部隊将兵ら、2000人は北京居住者)
・死者内訳は戒厳部隊の将兵23人、一般人218人(北京居住者、上京者、学生、暴徒)
一般人死者218人には北京の大学生36人、北京以外からの上京者15人を含む。学生死者は20校にまたがり、中国人民大6人、清華大と北京科学技術大が各3人、北京大など7校が各2人など。(『天安門文書』429~430頁)

   さらに6月30日付で陳希同・北京市長が「動乱制止と反革命暴乱鎮圧に関する状況報告」を全人代常務会議に提出。これは私も手元に残していたので改めて読み直した。

   全文14頁の前半は7週間の運動(報告書の表現は「動乱」)の経過を追い、後半は天安門広場を目指した戒厳部隊が、各地で学生・市民(報告書では「暴徒」)に進軍を妨げられ、いかに残酷な仕打ちにあったかを縷々述べる。そして「やむにやまれない状況下で発砲に至った」という点を強調している。

   被害状況も戒厳部隊側のそれが前面に打ち出される。

・破壊、焼き打ちされた戒厳軍、警察、公共交通等の車両は1280台余り
・内訳は軍用トラック1000余台、装甲車60余台、警察車両30余台、公共バス・トロリーバス70余台、その他の自動車70余台
・戒厳軍兵士、武装警察官、警察官6000余人が負傷し、死者は数十人
他方で「非軍人の死傷者」は次のような数字を示した。
・負傷者3000余人
死者200余人、うち大学生36人

   北京市のトップ2人が示した死者数は依然として300人以下で、大学生の死者数は袁木が発表した「23人」から「36人」に若干増えたが、いまも私は「そんなものだろうか」という疑念がぬぐえない。

   最終的に当局が示した犠牲者数は「319人」である。これは89年9月17日、李鵬首相が日中友好議員連盟訪中団の伊東正義団長らに対し、初めて明らかにした数字である。

海外メディアはどう報じた

   ところで日本の新聞は事件をどう報じていたか。事件事故の報道では死傷者数は重要なデータである。以下は朝日、読売、毎日各紙の6月4日付朝刊(東京本社版)で、この点に注目すると――。

【朝日新聞】「軍発砲 8人死ぬ」がトップ見出し。以下「病院側『負傷100人以上』」「北京 強制排除に着手 市民、火炎瓶で抵抗」「鄧小平体制に危機」
【読売新聞】「戒厳軍、群衆に発砲」がトップ。以下「北京 装甲車出動、制圧を開始」「学生ら10人死亡か」「市民抵抗 装甲車炎上 負傷者100人以上か」
【毎日新聞】「軍、天安門広場に突入」が主見出しで、次に「発砲で死傷者多数

   3日夜の戒厳軍の広場制圧作戦と市内各所で発生した学生・市民の衝突は、朝刊づくりの作業上は不都合な時間帯の出来事だった。朝刊の締め切りは午前1時半(北京時間は零時半)。その時間は戒厳軍が天安門前に到着したかどうかで、軍と学生・市民の衝突の全容はまったく把握できない段階だった。

   したがって第一報の数字は、新聞づくりの制約上やむを得ぬものだったと思うが、翌5日付朝刊が報じる犠牲者の数は、未確認情報で一気に膨らんだ。

【朝日新聞】「武力制圧 死者150人を超す」「北京 なお散発的銃声」「死者2000人以上の説も
【読売新聞】「天安門、死者千数百人に」「一斉射撃で制圧」「装甲車、学生をひく」「軍、北京大校内に突入」
【毎日新聞】「天安門デモ 武力鎮圧」「死者2600人か 軍が無差別銃撃」「建国40周年 中国、重大な岐路」

   いずれにしても犠牲者数について中国の当局発表と海外メディアの報道の間に大きなギャップがあった。その背景の一つは、当時の北京には通常と異なり多数の外国メディア関係者がいたことだ。ゴルバチョフ・ソ連書記長訪中という大ニュースがあり、取材後も居残った記者、カメラマンが多かった。応援部隊も続々と投入されていた。

   ある意味で天安門事件は、中国内の出来事としてはめずらしく海外の目に「さらされた」ものだったのだ。しかし中国の報道統制は通常から厳しく、戒厳令下では取材活動が一層制限されていた。6月4日未明、最後まで天安門広場にいた外国人や香港ジャーナリストら10数人程度だったと推測されている。

   そうした状況下で「無差別発砲でバタバタと人が倒れた」「病院は死傷者であふれている」「長安街も遺体があちこちころがっていた」「天安門広場は血の海になった」といった伝聞に基づく断片情報が飛び交い、真偽を確かめようもなく拡散されていった。とてつもない惨事が、北京で起きていると。

   私も4日の夜が明けてから、かねて信頼できると考えていた人物からの電話で「中国赤十字の集計で死者は約3000人にのぼっている」という数字をささやかれたことを記憶している。

加藤千洋さん

加藤千洋(かとう・ちひろ)
1947(昭和22)年東京生まれ。平安女学院大学客員教授。東京外国語大学卒。1972年朝日新聞社に入社。社会部、AERA編集部記者、論説委員、外報部長などを経て編集委員。この間、北京、バンコク、ワシントンなどに駐在。一連の中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。2004年4月から4年半、「報道ステーション」(テレビ朝日系)初代コメンテーターを担当。2010年4月から、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。2018年4月から現職。
主な著訳書に『北京&東京 報道をコラムで』(朝日新聞社)、『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波現代文庫)、『鄧小平 政治的伝記』(岩波現代文庫)など。
日中文化交流協会常任委員、日本ペンクラブ会員、日本記者クラブ会員。