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保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(41)
軍人勅諭と戦陣訓――明治と昭和の戦時観の違い(その2)

   さらに論を進めたい。今回は次の二つの視点を整理するために、戦陣訓をとりあげたい。

(1)戦陣訓は玉砕や特攻作戦の引き金になったのか。
(2)戦陣訓の真に批判されるべき箇所はどこなのか。

   この2点を見ることで、昭和の日本軍の錯誤と傲岸とを浮き彫りにしておきたいと思う。私はあの戦争(太平洋戦争)で、軍事指導者たちがあれほど国民、兵士の命を軽んじた理由がわからない。国民、兵士の命など自分たちで自在に操れると考えた理由はどこにあるのか。天皇の命令だと一方的に国民、兵士に押し付けておいて、自分たちと関係者は安穏と日々を送る。その不思議ともいうべき精神構造はどこからきたのか。

  • アッツ島に上陸する米軍兵士。玉砕した日本兵は「ありうべき姿」として讃えられた
    アッツ島に上陸する米軍兵士。玉砕した日本兵は「ありうべき姿」として讃えられた
  • アッツ島に上陸する米軍兵士。玉砕した日本兵は「ありうべき姿」として讃えられた
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん

玉砕や特攻作戦の引き金になった「戦陣訓」

   その意味では日本の軍事指導者たちの心理分析を具体的に進めて答えを見つけていかなければならない。軍事学よりも心理学の分野での確認が必要だとの意味である。今回はその試みということになるが、戦陣訓は軍事指導者の不可視の部分についての考察である。戦陣訓は玉砕や特攻作戦の引き金になったか、という点である。初めに結論から紹介するが、私はむろん引き金になったということに賛成である。

   玉砕戦術が公式の作戦と認められたのは、1943(昭和18)年5月のアッツ島の玉砕からである。アリューシャン列島にあるアメリカ領土(実際には現地の人々が住んでいるだけだが)のアッツ島には日本の守備隊員2500人がいたが、万を越すアメリカ軍の兵士と戦備が上陸し、日本軍の守備隊はそれこそたちまちのうちに壊滅する。大本営は援軍を送らず、その地で最後まで戦って死ぬように命令する。山崎保代部隊長は玉砕するだけでなく、霊魂となって戦うという電報を打って最後の戦いを試みて戦士している。

「お前たちは死ぬな。捕虜になれ」と叫んだ米軍兵士

   アメリカ側の兵士の手記を読むと、玉砕の日は日本兵は傷ついているにもかかわらず、横に一直線になってアメリカ軍の構えている陣地に進んできたというのである。「お前たちは死ぬな。捕虜になれ」と叫んでいるアメリカ兵は自分たちとはあまりにも異なる価値観に強い衝撃を受けた。しかし、日本の戦時指導者は、この玉砕こそ、日本兵のありうべき姿として讃えられ、単行本が7、8冊も刊行され、歌も作られ、絵画でも現され、異様な興奮状態が戦時下の日本社会に作り出された。この玉砕に続いて敗戦時までに玉砕は12回に及んだ。

   しかしよく考えて見るとわかるが、この興奮状態は大本営参謀たちの責任逃れという以外にない。と同時にアメリカ、イギリスなどの連合軍は、こういった場合、捕虜になるか、最後まで戦うかは大体が現地の最高司令官の判断に任せられる。本国の参謀本部では現地軍の意向を尊重するのが、いわば20世紀の戦争でもあった。日本は現地の最高司令官にその権限を与えない。そのために最後まで戦えという命令を下して平然としていられるのだ。自分たちは戦場の過酷さとは一線を引いて作戦重視という名分のもとに玉砕部隊を見殺しにするといっても良かった。

参謀たちの責任逃れに利用された「戦陣訓」

   このような大本営参謀の心理的負担を減らすのが、実は戦陣訓だったと考えて見ると、この訓示の意味がわかってくる。まず一般的には戦陣訓は兵士に死を強要するための経典だったとされているが、むろんそれを否定はできないにせよ、それよりも参謀たちの責任逃れに利用されたという現実を見ておかなければならない。私はむしろこの点が論じられてこなかった不自然さを改めて指摘しておきたい。

   戦陣訓はまず「序」があり、軍人精神を説いている。その後に「本訓 其の一」がある。ここには第一から第七までの項目がある。次いで「本訓 其の二」がある。こちらは第一から第十までの項目があり、このうちの第八が「名を惜しむ」となっていて、その中に「生きて虜囚の辱を受けず」という一節がある。これが戦陣訓の骨子とされてきたのである。付け加えておけば、戦陣訓には「本訓 其の三」もあり、その長さは一般に想像されているよりはるかに長い。戦陣訓のこうした構成は、一般兵士はほとんど知らず、軍事指導者にとって都合の良い部分のみが殊更に強調されたということになるであろう。

   さて「本訓 其の一」は戦場での将校などの本分を繰り返して説くのだが、例えば「第一 皇国」の中には、「戦陣の将兵、宜しく我が国体の本義を体得し、牢固不抜の信念を堅持し、誓って皇国守護の大任を完遂せんことを期すべし」という一節がある。「本訓 其の二」には、「常に大御心を奉じ、正にして武、武にして仁、克く世界の大和を現ずるもの是神武の精神なり。武は巖なるべし仁は遍きを要す。苟も皇軍に抗する敵あらば、烈々たる武威を振ひ断乎之を撃砕すべし」といった一節がある。これらの意味は、参謀たちには兵士の命よりも皇国守護の大任こそが何よりも大切だと命じていることがわかる。

   この戦陣訓は軍事指導者の意識を変えるものだったことを改めて理解して、太平洋戦争を見ていくことで多くの矛盾が浮かんでくる。(第42回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)『天皇陛下「生前退位」への想い』(新潮社)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。