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外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(30)歴史家・ 磯田道史さんと考える「過去の知恵」

   近代最悪の被害をもたらした災害と言えば、誰もが1923(大正12)年に10万人以上の死者・行方不明者を出した関東大震災を思い浮かべるだろう。それは正しくない。1918~20年に流行した「スペイン風邪」ではその4倍以上、45万人もの死者が出た。なぜ歴史は埋もれたのか。歴史に学ぶべき「知恵」とは何か。歴史家・磯田道史さんにうかがった。

  •    (マンガ:山井教雄)
       (マンガ:山井教雄)
  •    (マンガ:山井教雄)

見抜いたコロナ禍の展開<

   まずは以下の文書をお読みいただきたい。これ以前に何度かバージョン・アップされているが、この文書が書かれた日付は2020年4月21日である。

   新型コロナ終息までのロードマップ・イメージ(未発表)   磯田道史

   未来のことは誰にもわかりませんが、想定しないことには計画がたちません。歴史家の目から見た今後の 新型コロナウイルスの展開イメージを書いておきます。

   現在、我々は、新型コロナウイルス第1波に 襲われております。

   イタリアやアメリカのように、とんがり帽子型の感染曲線だと、約2カ月ちょっとで第一波が弱まる。日本のように何らかの免疫抵抗力があるか、感染の遅滞作戦がある程度成功した場合、陣笠型の感染曲線をとると、3カ月から4カ月で第一波が弱まる。つまり、日本は3月終わりに感染が激増したので、6月中は無理で、7月8月までは終息しないとみるべきです。5月の連休に外出が増えて長引いたら、8月初旬、そうでなければ7月上旬にはかなり感染数は減ってくることが期待できると思われます。

   これから、未来になにが起きるでしょうか。 これから5月から夏に、世界で医療関係者から一般の人まで抗体検査で免疫確認が始まって結果がわかってくるでしょう。

   中国やイギリス・ドイツが先行するはずです。これらの国では今夏から、日本でも、ややおくれて一般人も抗体検査が進められる可能性があります。

   抗体検査で、長期免疫獲得者をはっきりさせて、彼らがすぐ復帰して、経済を回せるかというと、単純ではなさそうです。獲得免疫には強弱があるようです。

   中国の感染者の研究例では3割の罹患回復者は十分な抗体を得られていないということです。

   たとえ長期免疫獲得者の状況がある程度明らかになっても、かなり慎重に自粛の解除が 行われていくものと思われます。

   そして、日本でも、気温がまた下がってくる、10月以降、新型コロナ第2波への警戒が始まると思われます。 その様子は世界の感染の状況次第です。

   第2波の襲来があるかどうか。国内で制圧しても海外から反射で入ってくるかどうか。ここが課題になってくるでしょう。寒くなってくると、第2波への警戒が、世界の課題になると思います。

   9月になってこの事態が半年を超え、早い国では、医療関係者から挑戦的なワクチンの接種が始まるかもしれません。中国とイギリス・アメリカなどがリスクを恐れずこれに挑戦するでしょう。しかし、安全性の面から、われわれ日本では2021年年明けに一般人までワクチンを打つかというと、そうではないでしょう。まずは医療関係者と基礎疾患・高齢者の接種が来春からはじまる可能性があります。そして一般のワクチン接種は1年半から2年ぐらいで始まるのが予想の中間値ではないでしょうか。うまくいけば、大幅に早まる可能性もないではありません。

   困るのは、新型コロナウイルスが変異して、ワクチン開発が長期化する可能性です。新型インフルエンザ治療薬アビガンを開発した富山大学名誉教授の話では変異はあってもそれほどではないだろうということですが、どうかわかりません。それなりのワクチンは1年から1年半ほどで開発される可能性はあると思われます。

   こうして、安全性の高まったワクチンの一般への接種が行われて、国民の一定数が「ワクチンによる集団免疫の獲得」に至って、はじめて、平常時に近づいていきます。

   これがひとまずの終息となります。しかし、これは早くても来年春以降の話とみておいたほうがよい、というのが現時点の平均的な予測だと思います。

   以上が、磯田さんがお書きになった文書の全文だ。5月連休で抑えれば、いったんは収まるが、10月以降に第2波襲来の可能性があること、ひとまずの終息は早くても来年春以降になるだろうと予測するなど、8か月後の今読み返しても、その洞察には驚かざるを得ない。この文書が書かれたのは、疫学や公衆衛生の専門家の中にすら、「恐れるほどではない」との楽観論者がいたころだ。

   磯田さんは、東京都文京区目白台にある「永青文庫」の評議員を務めている。熊本藩主細川家伝来の家宝を軸に、日本・東洋美術を収集・展示・研究する美術館で、細川護熙・元総理が理事長を務める。私もその隣にある旧細川邸の和敬塾で、女優の村松英子さんが主宰する「サロン劇場」を見たことがある。

   コロナ禍の広がりがまったく見通せなかった4月、磯田さんは「永青文庫」の開館・休館や展示企画の判断の指針となるよう、ここに掲げた「行程表」を作成し、提供した。何度か手を加えたが、基本線は当初からぶれていない。

   「未発表」とあるのは、「歴史家は現在に連なる過去を研究対象とすべきで、将来を予測すべきではない」という研究者としての謙抑精神からだ。今回は私が懇願し、公表させていただくことにした。

   それにしても、4月という早い時期に、なぜここまで正確に、コロナ禍の展開の大筋を見抜くことができたのか。

   それが今回、12月23日にZOOMで行った磯田さんへのインタビューの最初の質問になった。

「歴史人口学」が培ったリアルな目

   磯田さんは2020年9月20日、「感染症の日本史」という文春新書を刊行した。雑誌「文藝春秋」の5月~10月号に掲載された論考に大幅に加筆、再構成を加えた書き下ろしである。その最終章に、「歴史人口学は『命』の学問」という文章がある。

   この章の副題に「わが師・速水融のことども」とあるように、2019年12月4日に90歳で逝去した歴史人口学の泰斗・速水融氏との出会いとその薫陶について書いた文章だ。

   磯田さんが速水学の存在を知ったのは、まだ高校3年生で京都府立大への受験を終えたばかりのころ、地元岡山大学の図書館を訪ねた時だったという。将来は歴史を専攻したい。志望ははっきりしていても、どの時代にするかは決めかねていた。その参考にしたいと思ったからだ。

   職員は「高校生は利用できない」と断ったが、せっかく来たのに追い返すのはどうかと考え直したらしく、「見学ならいい」といってくれた。歴史書の書架の前に立って、目に飛び込んできたのが、速水氏の「近世農村の歴史人口学的研究 信州諏訪地方の宗門改帳分析」(東洋経済新報社)だった。本を開けば「見学」の域を超えるとためらったが、我慢ができずにページを繰ると、あまりに斬新で、衝撃を受けた。

   生物の教科書にしか出てこないような「生存曲線」のグラフが掲載され、「宗門改帳」から農民の結婚年齢や平均寿命といった数字をコツコツ導き出す革新的な手法を用いていたからだ。

   その後、磯田さんは速水氏の「日本経済への視角」(東洋経済新報社)や「日本における経済社会の展開」(慶応通信)などを読み進み、「二系列説」に出会う。

   これはエジプト、インド、中国など「古代社会の経験が特徴的な社会」を「第一系列」ととらえ、西欧や日本など、封建制から資本主義への道のりを経た「第二系列」とを区別する世界史像の問題提起だった。「第一系列」は古代文明の終焉と共に化石化し、多くは20世紀後半に近代化への道を歩む。だが古代には「蛮族」や「夷狄」とみなされていた「第二系列」は、「第一系列」との接触が深まるにつれ内部に進化を生じて「中世封建社会」を醸成し、さらにその内部で封建社会を否定する経済要因などを形成し、いち早く近代化への道を歩んだ、とする見方だ。

   これは、当時主流だった戦後マルクス歴史学の「単線的な進化論」に挑戦し、複眼的な視覚で世界史をとらえ直すスケールの大きなパラダイム・シフトの問題提起だった。

   どうしても速水氏の教えを乞いたい磯田さんは京都府立大に在籍しながら受験勉強をして1990年に、速水氏が当時在籍していた慶応大に進んだ、ところが速水さんは前年秋に慶応大経済学部長を退任し、京都の国際日本文化研究センター(日文研)教授に就任しており、せっかくの転校は「行き違い」に終わってしまった。

   たぶん、この「行き違い」はのちのち、後進の歴史家の間で語り草となるだろうが、それであきらめる磯田さんではなかった。

   扱うデータが膨大で、人海戦術で研究する歴史人口学には、広い研究室が必要だ。ところがまだ日文研にはそのスペースがなく、速水氏は慶応大研究棟の地下に足場となる研究スペースを置き、東京にいる日も多いことを知った。

   磯田さんはのちの指導教官になる教授が速水氏の隣室にいることを知って紹介をお願いし、ようやく対面を果たした。

   その後しばらくして、日文研に移った速水氏から、宗門人別帳の古文書を集める大きな研究プロジェクトに誘われ、京都に赴いた。

   研究室の扉には横文字が書いてあった。速水氏が扉に貼っていたのは「この門をくぐる者、すべての望みを捨てよ」というダンテの「神曲 地獄扁」の一句だったという、

   歴史人口学がいかに地味で膨大な調査を必要とするかを語る「頂門の一針」だった。

   磯田さんは「相撲部屋に入るような気分」で速水部屋に入門し、その後学部から博士課程まで10年近く、古文書を求めて全国を渉猟する生活を送った。

   歴史人口学は、欧州に始まる新しい分野で、教区簿冊を元に出生・結婚・死亡などの「人生イベント」のデータを集積し、人口動態を明らかにする。速水氏は、宗門人別帳を元に国勢調査以前の人口動態を明らかにし、そこから過去の経済の実態を解明しようとした。

   プロジェクトが進められたのは、日本でも少子化が社会問題としてクローズアップされるようになった時期だ。日本の長期にわたる客観的な人口動態を解明する必要に迫られ、日本学術振興会による科学研究費助成金も出た。

   速水氏は歴史家の網野善彦氏、民俗学者の宮本常一氏らと親交があり、全国の津々浦々を歩いて調査する宮本氏の思い出話を磯田さんに聞かせた。速水氏の研究プロジェクトの史料収集で全国を行脚していた当時を振り返って、磯田さんは当時の自分は「ほとんど宮本常一状態でした」と冗談めかす。

   だが各地に史料を博捜する作業は、速水プロジェクトに役立ったばかりでなく、磯田さん自身の血となり肉になった。速水氏は主に農民や商人に着目したが、磯田さんは武士の史料も調べ、それが博士論文「近世大名家臣団の社会構造」につながり、のちの「武士の家計簿」(新潮新書)に結実していく。

一生に一度のイベント「死」に着目

   速水氏は2000年、文化功労者になった。普通なら「泰斗」として悠々自適の生活に入ってもおかしくないが、速水氏の場合は違った。マンションの一室を借りて私設の研究室とし、スペイン風邪の研究に入ったのである。

   磯田さんは当時、「そうか、先生は生から死に向かうのか」と感じたという。速水氏の研究はそれまで、出生変動の解明が主なテーマだった。それが今度は「死」を主要テーマにすると思ったのだという。

   「あらゆる人は一生に一度、生と死を経験する。結婚なら、ゼロの人も3度や5度の人もいる。生涯に一度のイベントである生と死ほど、論理的で実証的な手堅い研究の対象にふさわしいイベントはない。先生はそうお考えになったのでしょう」

   当時は、スペイン風邪の世界的な影響を調べた英国の研究成果も発表され始めていた。過去の統計から推計される「超過死亡」をもとに、スペイン風邪の死者数を割り出す研究もあった。速水氏は、日本の各種統計を駆使して地域別に死者数を割り出し、全国の新聞記事を集め、流行の変遷の実態に迫った。その成果は2006年、「日本を襲ったスペイン・インフルエンザ」(藤原書店)として刊行され、09年、速水氏は文化勲章を受けた。

   速水氏がスペイン風邪を研究していた当時、磯田さんは茨城大学助教授として水戸に赴任していたため、新聞記事ファイルの書架ならべを手伝うくらいしかできなかったが、その著書を受け取ったころ、速水氏が漏らした言葉に強い印象を受けたという。速水氏はこう言った。

   「大流行は必ず、また来る。その時、行動の制限を受けた国民は、政府に協力できるだろうか。各国政府は、感染や対策の情報をガラス張りで公開できるだろうか」

   スペイン風邪の著書には、「人類とウイルスの第一次世界戦争」という副題がついている。「第一次」という言葉に、「必ず、また来る」という速水氏の警告がこめられていたのだろう。

   今回のコロナ禍が始まった時、磯田さんが真っ先に思い浮かべたのは、速水氏が漏らした「必ず、また来る」という言葉だったという。

スペイン風邪、日本での犠牲

   速水氏の調査によると、スペイン風邪による死者は、「日本内地」だけで45万人、樺太で3800人、朝鮮で23万人、台湾で4万9千人に上る。

   その研究は、感染による死者の規模を明らかにしただけではない。スペイン風邪が「3波」にわたって襲ってきたことを明らかにしたことが、さらに重要だ、と磯田氏は指摘する。それは以下のような経過をたどった。

第1波 1918(大正7)年5月~7月
高熱で寝込む人がいたが、死者を出すには至らなかった(春の先触れ)

第2波 1918(大正7)年10月~19年5月頃
26・6万人が死亡。18年11月は最も猛威を振るい、学校は休校、交通・通信に障害が出た。死者は19年1月に集中し、火葬場が大混雑になるほどだった(前流行)

第3波 1919(大正8)年12月~1920年5月頃
死者は18・7万人(後流行)

   「前流行」では、死亡率は相対的に低かったが、多数の罹患者が出たので、死亡数は多かった。「後流行」では罹患者は少なかったが、その5%が亡くなるという高い致死率になった。

   磯田さんは、未知のコロナ禍に対処するうえで役立つのは第一に「自然科学のウイルスの知識」であり、第二に「歴史的経験」であるという。今回のコロナと、スペイン風邪のような当時の「新型インフルエンザ」は違う。しかし「感染致死率は1割に達しないが、患者1人が2~3人にうつす感染力でパンデミックとなり、世界で多数の死者を出す」という点ではよく似ている。もちろん医療事情などで当時と今は違うが、今と類似の歴史現象で近代医学の記録が最も多く残されているのはスペイン風邪だという。

   そうした前提から、磯田さんは「感染症の日本史」の1章を「スペイン風邪百年目の教訓」にあて、速水氏の著書などを引き合いに、二つの感染症の比較と、そこから汲むべき「知恵」を導いている。その根幹にあるのは、感染の波は何度も襲来するということであり、変異をしたうえで致死率を高めることがある、という警告だ。

   興味深いのは、当時も「経済への打撃」や「医療崩壊」の危機があり、軍隊など密な集団でクラスターが発生し、貿易港神戸で働く人や市電運転手など、人の移動や接触が多い場所で働く人に感染が広がるなど、今と同じ現象が起きていることだ。それだけではない。当時も日本ではマスクの使用が奨励されたが、「アメリカのように強制的に、マスクを着けない者は電車に乗せないほどではなかった」(速水氏)という風に、百年前にすでに、「要請と自粛の日本文化」と「ペナルティを科す西洋文化」というコントラストがあらわになっていた。

   詳しくは「感染症の日本史」をお読みいただきたいが、同書にはスペイン風邪だけでなく、天然痘や麻疹(はしか)などの疫病と日本人がどう戦ってきたのかを、様々なエピソードや逸事を引いて描写している。一読をお勧めしたい。

「歴史の知恵」

   ここまで磯田さんにお話を伺って、磯田さんがなぜ4月の時点でこれほど正確な行程表を作成できたのか、私なりに理解できたような気がした。

   磯田さんが師事した速水氏は、歴史人口学の手法を日本で確立し、膨大なデータをもとに実証的にある時期、ある地域の社会を分析し、そこから動態的な歴史像を再構築した。これは権勢を振るった天皇、貴族、武人、商人ら支配者・有力者の盛衰に焦点を合わせた歴史学や、制度やシステムの変遷を通じて社会を分析する手法とも違う。むしろ、無名の人々の生死に着目して、手堅い史実から彼らがどう歴史を動かしてきたのかを探る学なのではなかったろうか。

   個人にとって、最も重要なことと言えば、自らの生死であり、家族や知人の生死だろう。為政者にとって、無名の人々の生死は、統計上に表れる数字に過ぎないのかもしれないが、庶民にとっては最も厳粛なイベントだ。

   歴史を数量やデータで把握するといえば、そこには近代以降の統計学に付きまとう無機的、機械的なイメージが忍び込みやすい。

   だが全国各地を隈なく歩き回って宗門人別帳からデータを収集する研究者にとって、そのデータは単なる数値ではない。その土地、その村の風景を眺め、地域の奥に踏み入って、複雑微妙な人間関係を潜り抜けてようやく手に入る史料は、むしろ長く埋もれ、後世の人々にも忘れ去れられた過去なのだろう。当然、そのデータをどう解釈し、再構成するかをめぐって、歴史家は、自生する固有種を調べる植物学者のように、土壌や環境、その分布、外来種との干渉や相克などを考慮するに違いない。つまり、生きた過去の歴史を復元する作業とは、庶民の過去を忘却から救いだし、それを多重多層に重ねて歴史像を構築する探究なのだろう。

   そこまで考えれば、速水氏が後年、なぜスペイン風邪の研究に没頭したのかも、理解できるような気がする。それは「忘れられた」のである。

   大きな震災・津波や火山噴火、洪水は最初は神話や伝承、のちには歴史記述として残されており、災害考古学や災害歴史学の成果が蓄積されてきた。2012年に刊行された「日本歴史災害事典」(北原糸子・松浦律子・木村玲欧編、吉川弘文館)はその現時点での集大成であり、歴史災害については864年の富士山貞観噴火から2011年の東日本大震災に至るまで、大きな災害が個別に多角的に報告されている。だが、海難事故やデパート大火すら網羅するこの本に、スペイン風邪などの感染症は出てこない。

   その理由はなぜだろうか。多くの自然災害は発災時の被害が最大で、その後、徐々に被害が減衰する経過をたどる。被害は見た目に歴然としており、被害が甚大かどうかは一目でわかる。つまり、いかに悲惨であるかが「出来事」として記録されやすい。

   だが、感染症は目に見えない。それは波状的に繰り返し襲いかかり、最初の感染が最大の被害をもたらすとは限らない。むしろすでに感染して免疫を獲得した人が、助かったり、感染社会を下支えしたりする。つまり、「出来事」を記述する従来の歴史学の手法では、その規模や変遷を追うことが難しい。しかも純然たる自然災害と違って、感染症は、為政者や専門家の対策の是非や、それを社会のアクターや構成員がどこまで受け入れ、実行するのかという実効性が複雑に絡んでくる。自然と人為が分かちがたく絡み合う複合現象なのである。一筋縄ではいかない。

   それがおそらくは、「スペイン風邪」や大きな感染症が歴史に埋もれ、私たちの集合記憶からも欠けた理由だったのではないだろうか。おそらく速水氏はその「歴史の空白」に気づき、その追跡に渾身の力を振り絞ったのではないだろうか。

   それは通常の病気と同じように、個々人の生死を分かつ「運命」や「不幸」とみなされ、「災害」とは明確に認識されてこなかった。私たちは過ぎ去った疫病を、たんに忘れただけなのに、それを「医療技術の進歩」や「文明の勝利」と思い込んでいた。

   歴史や集合記憶から欠落しているということは、先人が対処した「歴史の知恵」も埋もれてしまったことにほかならない。

   磯田さんは著書の「はじめに」で、次のように書いている。

「現今は、歴史教科書には出てこない病気やウイルスや患者が主人公になった『歴史の書物』が書かれ、読まれることも、必要であろうと思います。人間は誰しも病気になります。当たり前ですが、死なない人はいません。であれば、健康や不健康の視点からみた歴史は誰にとっても他人事ではなく、大切になります」

   こうした視点から磯田さんはこの本の後半で、当時の天皇や総理大臣、文豪の記録も患者の一人の史料として扱い、京都の女学生の「感染日記」と並列する。どのように病気になり、どういう場合に助かり、どういう場合に命を落としたのか。「患者史」という新たなジャンルを切り拓く試みだ。

   速水氏の遺志は、間違いなく、ここに受け継がれている、と思う。

上杉鷹山の「知恵」に学ぶ

   そこから磯田さんの話は、米沢藩の名君・上杉鷹山の感染症対策に移っていった。

   取材した翌日に発売の「週刊文春」が、「コロナ時代の生き方」という特集を組み、磯田さんは「上杉鷹山に学ぶ非常時のリーダーの心得」という文章を寄せていた。

   「感染症の日本史」にも詳しく書かれているが、1795年に米沢藩を襲った天然痘(疱瘡)に対し、藩主の鷹山は矢継ぎ早に手を打った。いずれも他藩には見られない独自の対策だ。

   当時は感染症が流行すると、どの藩でも藩主に感染させないことを最優先にしていた。家臣は藩主の私生活の場である「御内証」や政務の場である「表向き」に出仕することを控えた。これが当時は「遠慮」と呼ばれた。今でいう「自粛」を指す。

   だが鷹山は「御内証、表向共に遠慮には及ばない」と命令した。つまり出仕してもかまわない、という指示だ。日本の疫病と防疫を記録した史書は、「疱瘡を伝染病と考えていなかったろう」としているが、磯田さんは違う、と指摘する。米沢藩には家老の直江兼続が集めた最先端の医書の蔵書があり、鷹山は蘭学塾に藩費で医師を留学させるなど、西洋医学の吸収にも熱心だったからだ。

   ではなぜ鷹山は「自粛無用」と指示したのか。磯田さんは非常事態で役所が機能不全を起こせば、困るのは領民と考え、「自分にうつしても構わないから、役所を動かせ」と指示したのだろうという。

   磯田さんがそう考えるのは、鷹山の感染症対策が常に「領民本位」「患者本位」で貫かれているからだ。鷹山は生活に困窮した人が名乗り出るよう申し渡し、手当を支給した。

   さらに家族全員が感染して看護者がいなくなる事態を想定し、常に見回って隣近所が助け合うように心砕いた。

   鷹山はまた、江戸から天然痘の専門医を呼び寄せ,対策チームの指揮を執らせた。患者には「薬礼に及ばず」と言い渡し、医療を無償提供した。

   鷹山は、城下町だけでなく、遠方にも目配りを怠らず、山間部などに「薬剤方」や「禁忌物」などに関する心得書を配布させた。

   こうした対策にもかかわらず、上杉鷹山の米沢藩領では感染者が8千人を超え、うち約25%が亡くなった。鷹山は翌年の正月の祝賀を取りやめ、被害の規模を詳細に記録させた。

   磯田さんはこの時に鷹山が残した「御国民療治」という言葉に注目する。国民、つまり藩の領民は、必要な医療を受けねばならない、という強い意志だ。

「鷹山は子どもの頃から、春秋左氏伝に言う『国之興也 視民如傷』、つまり、けが人を見るように民を見る、という教えを受けて育った。大けがをした人のように、ケアが必要な人を助ける。医者の考えに近い施政の哲学です」

   藩主になる前に、鷹山の教育掛りになったのは儒者の細井平洲だった。この人の逸話が面白い。

   会津120万石を拝領していた藩主の上杉家は、景勝の時代に関ヶ原で家康軍に破れ、米沢30万石に減移封になった。さらに男系断絶の危機にさらされ、所領はさらに半減された。だが家格の高い上杉家は会津以来の家臣団をそのまま維持し、かつての家格に応じた出費を続け、財政は破綻の危機に瀕した。この藩主を育てなければ、もうあとはない。日向高鍋藩秋月家から養子として迎えた鷹山をどう育てるか。それが、藩首脳の焦眉の急の課題となった。

   「家臣が江戸に出て養育掛りを探していると、橋のたもとで辻講釈をしている儒者がいました。話を聞いていた庶民が感動のあまり泣いて、貧しいのに投げ銭をしている。尾行したら貧しい長屋暮らし。人の気持ちに訴え、心を動かすような人物でなければ、藩は変えられない。そう思って、その細井平洲を米沢に招いたと言われています」

   平洲は14歳から17歳にかけて鷹山に教えたが、その基本が「国民を見る時にはけが人に接するように」という施政訓だった。

「あなたがしっかりしないと国民は死ぬ。命がけにならないと改革はできない、という教えだったと思う。のちに平洲は鷹山に書簡で、『勇なるかな、勇なるかな、勇にあらずして何をもって行わんや』と激励もした。諸藩が平時の前例踏襲を墨守したの対し、疫病の非常時に鷹山がリーダーシップを発揮できたのは、その教えが大きかったでしょう」

   磯田さんは、鷹山の天然痘対策から、非常時に指導者に必要な教訓を引き出し、次の9点にまとめた。

教訓1 一番どこが困って悲惨か、洗い出しをやり、救いこぼしのない対策をとる
教訓2 情報提供が大切。具体的にマニュアル化した指示を出す
教訓3 最良の方法手段を取り寄せ、現場の支援にこそ予算をつける
教訓4 専門家の意見を尊重し採用する
教訓5 非常時には常時と違う人物・事業が必要。変化をおそれない
教訓6 情報・予測に基づき計画し、事前に行動する
教訓7 リーダーは前提をチェックし、危うい前提の計画を進めないようにする
教訓8 自分や自分に近い人間の都合を優先しない
教訓9 仁愛を本にして分別し決断する

   磯田さんは、感染流行中には為政者や専門家の批判・非難はしないことを自らのポリシーにしている。感染防止の施策に、いたずらな混乱をもたらしてはいけない、という配慮からだ。

   だがこの9つの「教訓」を読めば、今の政治家のリーダーシップが、いかに鷹山と比べ、劣っているかを思わざるをえない。

   この「教訓」をよく見ると、「教訓1」~「教訓4」は疫病に当たって「ケア」や感染防止の鉄則を説く言葉だが、「教訓5」~「教訓8」は、戦国武将に求められたような機敏な情報収集・判断、将来を予測して果敢に先手を打つ決断力の要諦を並べている。

   徳川幕府の天下泰平の世で、多くの藩は、疫病に即応した対策を取れなかっただけでなく、戦国時代に培った判断・行動力も衰えていたのではなかったか。

   そして最後の教訓、「仁愛を本にして」という基本精神こそ、今回のコロナ禍対策に決定的にかけているリーダーの資質だと思わざるをえない。磯田さんが引き出した鷹山の「教訓」を、私はそう重く受け止めた。

   かつて私は、琉球王国史を研究する高良倉吉氏にインタビューをしたことがあった。高良氏は、「沖縄で歴史家は、植木屋さんや八百屋さんと同じく、欠かせない職業なんです」と話した。琉球処分、沖縄戦、米軍による占領、基地問題と、沖縄ではいまだに歴史は片付かず、決着した過去にはなっていない。だからどのような問題でも、歴史を専門に研究する職業が欠かせない、のだと。

   今回磯田さんにお話をうかがって、感染症にも歴史家は欠かせない、と実感した。

   感染症の「変わらなさ」は、おそらく、「変わる科学技術」や「変わる医療」をはねつけるほど、しぶとい。

   今回、英国のコロナ対策に助言するチームに行動科学や心理学の専門家が加わっているように、感染症の拡大防止には、その施策を人々がどう受けとめ、どう行動を変容させるかという洞察が必要だろう。指導者や専門家に対する人々の信頼度や、メッセージの伝え方も、ウイルスに対する知識と同じように重要だ。

   そうしたことは、これさえあれば、というマニュアルのような形では残されていない。

   だが、史料には。そうした問題について再認識を迫る原石がたくさん残されている。かつての感染症対策や防疫の効果は実測できないし、歴史には即効性はない。また磯田さんは「歴史にも恣意的な利用は多い。歴史家をあんまり買いかぶってもらっても困る」ともいう。

   だが、その「知恵」や「教訓」を汲みだすには、歴史家の言葉を聞くに如くはない。磯田さんに、そう教えていただいたように思う。

ジャーナリスト 外岡秀俊




●外岡秀俊プロフィール
そとおか・ひでとし ジャーナリスト、北大公共政策大学院(HOPS)公共政策学研究センター上席研究員
1953年生まれ。東京大学法学部在学中に石川啄木をテーマにした『北帰行』(河出書房新社)で文藝賞を受賞。77年、朝日新聞社に入社、ニューヨーク特派員、編集委員、ヨーロッパ総局長などを経て、東京本社編集局長。同社を退職後は震災報道と沖縄報道を主な守備範囲として取材・執筆活動を展開。『地震と社会』『アジアへ』『傍観者からの手紙』(ともにみすず書房)『3・11複合被災』(岩波新書)、『震災と原発 国家の過ち』(朝日新書)などのジャーナリストとしての著書のほかに、中原清一郎のペンネームで小説『カノン』『人の昏れ方』(ともに河出書房新社)なども発表している。