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半藤一利さんは、なぜ史実にこだわったのか
保阪正康の「不可視の視点」<特別編>(1)

   しばらくこの連載も休みをいただいていた。戦時下の教科書の異様とも言うべき「戦争礼賛」の内容を追いかけながら、その時代の児童、生徒はどれほど心に傷を負ったのか、そのことを確かめる回で止まっていた。可視化できる史実を追いながら、その実、目には見えないその当時の心理を見ていくと言うのが、この稿の狙いだが、不可視の部分を見ていくことは戦争に出会った世代に対する次代の人たちの果たさなければならない責任である。本稿はその責任を果たしたいと言うのが、執筆の動機なのである。

  • 2021年1月に死去した作家の半藤一利さん(写真:明田和也/アフロ)
    2021年1月に死去した作家の半藤一利さん(写真:明田和也/アフロ)
  • 2021年1月に死去した作家の半藤一利さん(写真:明田和也/アフロ)
  • ノンフィクション作家の保阪正康さん

「戦争の時代を克服する戦いを続けていた姿」を「感得したとの自負」

   連載の流れから少々外れるのだが、今回から何回かは二人の著名人の死を通して、「戦争」の影と戦いながら、次の世代に貴重な歴史的意味を託していった人物を語っておくことにしたい。一人は作家の半藤一利さん(享年90)である。もう一人は作詞家で作家でもあった、なかにし礼さん(享年82)である。半藤さんは今年(2021年)の1月12日に老衰で亡くなられた。なかにしさんは昨年(20年)12月24日にがんとの闘いを続けていたが、治癒には至らなかった。私にとって、二人の死は二本の大木が倒れたようで、体から力が抜けていくような感がしている。

   二人の生き方の中に、戦争という時代に生きた苦しみ、そして戦後社会でそれぞれのスタイルで戦争の時代を克服する戦いを続けてきた姿がある。その姿はなかなかわかりづらいのだが、私はそれを感得したとの自負があり、彼らの心中を語り継いでおきたいと思う。

   半藤さんと知り合ったのは、昭和50年代の初めであった。半藤さんは月刊『文藝春秋』の編集長であった。私は単行本を3冊ほど刊行した物書きの端くれだった。ただ私は、戦後に教育を受けた世代として、あの戦争がなぜ起こったのか、軍事指導者はどのような考えを持っていたのか、兵士たちは中国や南方の見知らぬ地に鉄砲を担いでいったことをどう思っていたのか、を直接に当事者から聞きたいと思っていた。そのことに半藤さんは興味を持ってくれたらしい。

半藤さんの言葉に「雷に打たれたよう」

   編集長を去り、役員になって、半藤さんも昭和史の不透明部分を作品として発表するようになって、親しみが増した。もともと半藤さんは、入社以来、文藝春秋編集部で戦史家の伊藤正徳の企画を担当して、その取材の手助けをしていた。半藤さん自身、軍人の指導層の人々に次々と会っていたのである。そういう含みがあったために、軍人の証言を昭和30年代から40年代と集めていたのである。私は昭和50年代の初めから、軍人たちの話を聞いていたので、結果的にだが、半藤さんは将官と佐官(それも中佐以上になるのだが)、私は佐官(少佐が中心で、中佐以上、大佐は少ない)と尉官、下士官が中心になった。そこで二人が確かめた証言を突き合わせていると、半藤さんは戦略、軍事政策などの決定のプロセスが詳しく、私は中堅幕僚が起案するその内容がある程度はわかることにも気がついた。

   昭和50年代の終わりからということになるのだが、半藤さんとは対談、座談会、さらには共著といった形で20冊近くは刊行している。従って半藤さんの発する一言で、私はそれが何を意味しているかがわかるようになった。たぶん半藤さんもそうであっただろう。対談が多くなったのはそういう呼吸が通じ合うようになったからだった。

   しかし昭和史をなぜ探究するか、なぜ史実にこだわるか、と言った動機について話すようになったのは、そういう対談などとは全く別の私的な会話で確かめてきた。もう15年ほど前になろうか、軍事指導者のあまりにも愚劣な作戦で兵士たちが殺されていったことを思うと、誰かがその責任を問うておかなければならない、我々はそれをやらなければいけない、と聞かされたことがある。その時私は、雷に打たれたような感がした。そうか、そうだったのか、と内心で呟いた。私もその言葉に共感したのである。

   それは政治や思想の問題ではない。ごく当たり前の常識の問題なのである。史実を確認して、それを多くの人に知ってもらう。その解釈や判断はそれぞれがすればいい。とにかく史実を明確にすることが大前提だというのである。私も全く同感であった。

「私は、絶対という単語を決して使わないんだ」

   半藤さんが、1945(昭和20)年3月10日の大空襲や国民学校の軍国教育について積極的に話し始めたのは、その頃からであった。そういう話をすると決めたのは、今までは自分だけが悲惨な光景や生死の境目の体験をしたわけではない、自分より話すのにふさわしい体験者は少なくないと一歩引いて考えていた。ところが話す人たちが次々と鬼籍に入っていく。戦争被害を風化させてはいけない、と覚悟を決めたのである。少国民の教育を受けた世代として、二度とあんな戦争をする国家になってはいけないとの信念を持っていたが、それが一気に吹き出してきたということになろうか。

   あの時代の教育がいかに間違っていたか。あの教育は相対化を全否定していたのだ。「私は、絶対という単語を決して使わないんだ」としばしば語っていたが、それが1930(昭和5)年生まれ、90歳で亡くなられた半藤さんの遺言だと、私は思っている。(<特別編>(2)に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)『天皇陛下「生前退位」への想い』(新潮社)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。