J-CAST ニュース ビジネス & メディアウォッチ
閉じる

外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(39)斎藤幸平さんに聞くコロナと「人新世の『資本論』」

   将来コロナ禍を振り返る時、渦中で最も大きな影響を与えた本として名前が挙がるのは、「人新世の『資本論』」(集英社新書)だろう。その著者で哲学者の斎藤幸平さん(34)に、コロナと気候変動、資本主義についてうかがった。

  •                             (マンガ:山井教雄)
                                (マンガ:山井教雄)
  •                             (マンガ:山井教雄)

中軸に据えた「気候変動」

   「人新世」は「ひと・しんせい」と読む。

   まだお読みでない方のために、ごく簡単なあらましをご紹介したい。

   「人新世」は、オゾンホールの研究などでノーベル化学賞を受けたオランダの科学者パウル・クルッツェンが提唱して世に広まった言葉だ。彼は、人類の活動の痕跡が地球を覆いつくし、環境や生態に大きな影響を与えるようになった現代は、地質学的に見て新たな年代に突入したと考え、それを「人新世」と名付けた。

   学校で習ったように、地質時代は大きく分けて、動物が出現して以降の「古生代」、恐竜などが栄えた「中生代」、動植物がほぼ今の状態に近くなった「新生代」と続き、それぞれがさらに細分化されている。私たちは1万年以上も前から続く「完新世」の時代にいる、とされてきた。

   だが、人は産業革命以降、石炭や石油などの化石燃料を大量に使い、膨大な二酸化炭素を放出してきた。それが「待ったなし」の気候変動を招き、地球規模の危機をもたらしている。それだけではない。人は都市化で超高層のビルや巨大構築物を集積し、海洋は分解されないプラスチックごみで覆われるようになった。「自然」は、もはやあるがままの自然ではなく、人の活動の痕跡が無視できないままに改変を加え、地質や生態までが新たな定義を必要とするような時代に突入した。そうした思考の枠組みを示す言葉が「人新世」だという。

   斎藤さんの「人新世の『資本論』」は、マルクスの「資本論」を足掛かりに、「人新世」が資本主義システムと分かちがたく結びつき、その「成長主義」から脱却しない限り、危機を迎え撃つことはできない、と指摘する。

   この本が注目を集める理由は二つあると思う。一つは、気候変動を日本では初めて思想課題の中軸に据えた点だ。

   2021年就任したアメリカのバイデン大統領は3月末、環境などを中心に8年間で2兆ドル(220兆円)を超えるインフラ投資を行うという案を発表した。気候変動対策などを柱に、戦前のニューディール政策に匹敵する財政出動をめざす。財源は多国籍企業への増税でまかない、富の再分配も図る計画だ。議会での調整は難航必至だが、コロナ禍を受け、米国が強力な市場介入を伴う「大きな政府」へ急速にかじを切っている。

   バイデン政権は40の国・地域の首脳に呼びかけ、4月22、23日にオンライン方式で気候変動サミットを主催した。バイデン政権は、開幕直前に、米国が2030年の削減目標を05年比で50~52%とし、オバマ政権が掲げた「25年に05年比で26~28%」という削減目標値をほぼ倍増させた。

   会議には、他の分野では対立を深める中国、ロシアも参加し、各国首脳は相次いで新たな目標を打ち出した。

   英国はサミット直前、35年に1990年比で78%削減する目標を打ち出した。カナダのトルドー首相は2030年の削減目標を「05年比で40~45%」に設定すると宣言し、これまでの36%目標に上乗せした。韓国の文在寅大統領は、海外の石炭火力発電への支援を廃止すると発言し、ブラジルのボルソナーロ大統領は60年の目標だった排出量実質ゼロを10年前倒しにすると語った。

   こうして国際社会が競って気候変動対策を強化するなか、菅義偉首相も開幕直前に、30年度に13年度比で46%削減するという目標を掲げた。

   トランプ政権がパリ協定からの離脱を宣言し、結束が乱れた国際社会は、環境政策を外交の中軸に据えて主導権を握ろうとするバイデン政権のもと、ようやく足並みをそろえつつあるかに見える。しかもバイデン政権は、気候変動対策に巨費を投じ、環境分野で雇用を創出しながら技術革新でも覇権を握る「グリーン・ニューディール」を構想しているといわれる。

「グリーン・ニューディール」は実現見込みがない?

   気候変動を中軸に据えた斎藤氏の著書は、まさに時宜にかなっている。そう思う方もいるだろう。だがそうではない。斉藤氏はさらに先を行き、こうした経済成長との両立をもくろむ「グリーン・ニューディール」や他の代替案について、精緻な議論を踏まえながら、実現する見込みがほとんどないと、指摘する。

   資本主義システムを根底から変え、「成長主義」を捨てない限り、現下の危機は乗り越えられない、というのである。具体的に見てみよう。

   まず「グリーン・ニューディール」だ。環境負荷を減らすように産業構造を転換して、新たな市場を見出す。既成勢力からの抵抗はあろうが、もしそれができれば一石二鳥であり、最適解のように思うだろう。だが、それはできない。斉藤さんは、環境学者ヨハン・ロックストロームの研究チームが09年に提唱した「プラネタリー・バウンダリー(地球の限界)」という概念に注目する。

   地球システムには自然本来の回復力(レジリエンス)がある。だが一定以上の負荷がかかると、その回復力は失われ、急激で不可逆的な破壊的変化を引き起こす可能性がある。これが「臨界点」だ。

   ロックストロームらは、気候変動、生物多様性など9つの領域で計測し、この臨界点を見極めようとした。つまり、この範囲ならば「人類の安全な活動範囲」という領域を設定し、その「地球の限界」内に人類の活動をとどめようという試みだ。

   ところが斎藤さんによれば、気候変動や生物多様性など4項目はすでに臨界点を超えてしまっていた。ロックストロームは最初の提案から10年後の2019年、「緑の経済成長という現実逃避」という論文を発表し、かつての自分の立場を自己批判した。経済成長か、気温上昇1・5度未満の目標か、どちらか一方しか選択できないことを認めたのである。

   斎藤さんによれば、これは経済成長と環境負荷の「切り離し」、つまり「デカップリング」が現実には極めて厳しいことを、ロックストロームが認めたことを意味する。経済成長で増大してきた環境負荷を、電気自動車などの新技術で切り離す。それがデカップリングだ。しかし、効率化によって排出量の伸び率を減らす「相対的デカップリング」では気温上昇に歯止めがかからず、絶対量を減らす「絶対的デカップリング」をするしかない。だが、経済活動が順調に進み、規模が拡大するほど、資源消費量は増大する。つまり「緑の経済成長」がうまくいくほど、さらに劇的な効率化が必要になる。これが「経済成長の罠」だ。だが2030年には二酸化炭素排出量を半減させ、2050年にまでにゼロにするという目標すら危ぶまれるのが現状だ。

   こうしたことからロックストロームは、気候変動に対処するには、経済成長をあきらめるしかない、という結論に達した。経済成長をあきらめ、経済規模を縮小させる以外に、解決法はない、ということだ。だがここにジレンマが生じる。資本主義にはもう一つ、「生産性の罠」があるからだ。資本主義はコストカットのために労働生産性を上げようとする。より少ない人数で同じ量の生産物を作り出せるからだ。しかし経済規模が同じなら、失業者が出てしまう。労働者は生活できず、政治家は多くの失業者が出れば人気が下がる。こうして生産性を上げると、経済規模を拡張するよう強い圧力が働く。これが「生産性の罠」だ。つまり、「経済成長の罠」を抜け出そうとすれば、今度は「生産性の罠」が待ち受けており、改革には強い抵抗が働く。これが「資本主義システム」の限界だ。

   斎藤さんはこうして、新技術の開発で「効率化」を追求しようとしても、商品が安くなればその分だけ消費量の増加につながるという「ジェヴォンズの逆説」などを紹介し、見せかけの「クリーン」の看板が必ずしも危機克服には役立たないことを丹念に論証する。

   斎藤さんは、この本の「はじめに」で、今はやりの「SDGs」すらをも批判して次のように書く。

SDGsもうまくいかない

   国連が掲げ、各国政府も大企業も推進する「SDGs(持続可能な開発目標)なら地球全体の環境を変えていくことができるだろうか。いや、それもやはりうまくいかない。政府や企業がSDGsの行動指針をいくつかなぞったところで、気候変動は止められないのだ。SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背けさせる効果しかない。

   かつて、マルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。

   この「宣言」を「過激」と感じる人もいるだろう。だが本書を読めば、その「過激」さは、現実から目を逸らさず、物事を徹底的に突き詰めた末の「ラディカルな思考」の結論であることに気づくだろう。

   私たちはレジ袋を買わず、マイバッグで買い物をする。プラスチックのストローを使わず、紙のストローを使うか、「マイストロー」や「マイ箸」を持参するかもしれない。「フードロス」に心を痛め、環境負荷を考慮する企業の製品を贔屓にする。

   そうしたことは必要だし、個人的には意味のある選択だ。しかし、だからといって私たちの社会が排出する二酸化炭素や大量のプラ廃棄物はなくならない。そのことを忘れれば、私たちは「クリーン」や「グリーン」を掲げて宣伝する企業や社会の「グリーンウオッシュ」に容易に欺かれ、自らが作り出した幻影で自分を騙すことになりかねない。

   斎藤さんの著書が注目されるのは、そのラディカルな思考のスタイルが私たちに、「いま、そこにある危機」の現実を突き付けるからだろう。

マルクス再発見

   もう一つ、斎藤さんの著書が注目を集める理由は、斎藤さんがこの本で「資本主義の限界」を見極める手法として、カール・マルクスの論考を参照枠としている点だ。

   多くの読者は、「いまさら、なぜ?」という素朴な印象を抱くのではないだろうか。マルクスといえば、もう「克服」された思想家であり、「忘れられた」思想家、というのが世間の通り相場だろうから。

   いわく、マルクスは資本主義の現状分析においては成果を上げたが、それを史的唯物論として定式化し、社会主義、共産主義の到来を未来の法則とした点に誤りがあった。

   いわく、マルクスは社会の下部構造を絶対化し、それに規定される上部構造を軽視した。いわく、彼は疎外論にのみこだわり、人間の主体性については十分に論じないうちに終わった。

   いわく、絶対的窮乏説は、修正資本主義によって克服され、階級は、あるいは少なくとも階級意識は消滅した。

   いわく、その唯物論と、歴史的必然性という言説は、共産党前衛による一党独裁と、計画経済に帰結し、専制と非効率な経済運営は、旧ソ連の崩壊へとつながった。

   挙げていけば、きりがない。戦前・戦中の社会主義思想弾圧への反動から、戦後はこの国の思想界・言論界の主流となっていた「マルクス主義」は、高度消費社会になってからすっかり賞味期限が切れ、一部の思想家や批評家を除けば、忘れられていた。

   その思想界の移ろいは、「たらいの水と一緒に赤子を流す」というものだったろう。

   だが、斎藤さんによると、世界に目を転じれば、欧米では近年、急速にマルクスへの注目が高まっているのだという。しかも、昔の文献を再解釈することによってでなく、新資料をもとにした研究が、その関心の基盤にある。私も全く知らなかったが、世界各国の研究者が「MEGA」と呼ばれる新しい「マルクス・エンゲルス全集」の刊行を進めており、最終的には100巻を超すことになるという。

   「マル・エン全集」といえば、日本語でも大月書店が刊行しており、手に取った人は少なくないだろう。だが、それは「著作集」であり、実際には公開されていない膨大な草稿、研究ノート、新聞への寄稿、手紙などがあり、そのすべてを網羅するのが「MEGA」プロジェクトなのだという。とりわけ、ロンドンの大英博物館でマルクスが本を借りては抜き書きをした「研究ノート」は、これまで他の著作の抜粋として片づけられ、研究者も顧みてこなかった。このノートが現在、全32巻の資料として、初めて整理され、公開されつつあるのだという。

   私たちの「マルクス理解」の大本にあるのは、1848年にエンゲルスと共に書いた「共産党宣言」だろう。それをもとに、マルクスを論じる人も少なくない。マルクスはその19年後に「資本論」を刊行し、それが彼の代表作になった。その後、マルクスは1883年に亡くなるまで、約15年ものあいだ、ほとんど著作を公にせず、研究を続けた。「資本論」の第二巻、第三巻は未完に終わり、エンゲルスがマルクス没後に遺稿を編集し、出版した。だがもともと二人の見解が違っているうえ、エンゲルスが後期マルクスの研究を十分に参照し、編集に活かしたとは言い切れない。

   つまり、「MEGA」プロジェクトとは、刊行された著作を再解釈したり、新たな解釈を提起する場ではない。それは、彼が残した草稿や研究ノートをもとに、後期マルクスの問題意識や関心領域を探り、彼が資本論の続巻でどのような議論を展開しようとしたのかを研究し議論する現在進行形の場なのである。

   斎藤さんは日本MEGA編集委員会編集委員を務める。

   つまり、この著作は、後期マルクスをめぐるMEGAの最新の実証研究をもとに、もしマルクスが21世紀に生きていれば、どのような議論を展開していたのかを論じる本なのである。

「21世紀のマルクス」が論じたであろう内容とは

   「共産党宣言」の中でマルクスは、資本主義の下で生産力が発展し、更なる生産力の発展が労働者階級の解放のための条件を準備すると考えた、といわれてきた。いわゆる「生産力至上主義」であり、そのことをもって20世紀後半に、彼の思想にはエコロジカルな要素がないとみなされ、環境運動から批判されてきた。生産力の発展が人間による自然の支配を可能にし、それが人類の解放につながるのなら、生産力の増強こそが環境危機をもたらしているという事実を過少評価してしまう、という理由からだ。

   だが、それは後期マルクスの苦闘を無視した単純化だ、と斎藤さんはいう。人間は絶えず自然に働きかけ、自然の循環過程を通して生を営む。人間もまた、自然の一部として、エコロジカルな「自然的物質代謝」のもとで生きざるをえない。だが、資本は自らの価値を最優先にするため、価値増殖という目的に見合った形で「人間と自然の物質代謝」を変えていく。資本は人間も自然も徹底的に利用し、自然や資源を収奪する。その結果、人々の生活は豊かになるが、ある一定の水準を超えると、資本は人間と自然の物質代謝を大きく攪乱し、ついには自然のサイクルと相いれなくなり、「修復不可能な亀裂」を生むまでになる。

   それが、斎藤さんのいう「人新世の資本論」のあらましだ。

   「MEGA」プロジェクトによって、晩期のマルクスは共同体研究とともに、地質学、植物学、化学、鉱物学など自然科学を徹底的に研究し、エコロジカルなテーマを資本主義の矛盾として扱うようになったことが明らかになった。斎藤さんは、その過程に焦点をあてた論文(邦訳「大洪水の前にマルクスと惑星の物質代謝」、堀之内出版)を書き、歴代最年少で「ドイッチャー記念賞」を受賞した。

   こうした実証研究を踏まえて斎藤さんは、「人新世」の著作ではさらにテーマを現代社会への考察にまで広げた。

   価値増殖を目指す資本主義は絶えず「外部性」を作り出し、そこに負担を転嫁することが常態化する。先進諸国は、豊かな生活を維持するために、グローバル化によって被害を受ける「グローバル・サウス」から収奪し、自らの生活の代償を押し付ける。彼らの生活の悪化は、現代の資本主義の前提条件になっている。だが、被害を受ける「グローバル・サウス」も、自らの健康や自然が破壊されるのを知りながら、生きていくために、その収奪を受け入れるほかない。

   資本主義のグローバル化が地球の隅々にまで及べば、新たな収奪の対象となる「フロンティア」が消滅する。利潤獲得のプロセスが限界に達し、利潤率は低下し、資本蓄積は困難になり、経済成長は鈍くなる。だが資本主義による収奪は人間の労働力だけでなく、地球環境そのものに向かう。人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義は、自然もまた掠奪の対象とみなす。斎藤さんはこう書いている。

「そして、そのような社会システムが、無限の経済成長を目指せば、地球環境が危機的状況に陥るのは、いわば当然の帰結なのである」

   斎藤さんは、人類がこれまでに使用した化石燃料の約半分が、冷戦が終結した1989年以降だという厳粛なデータを読者に突きつける。

   環境問題はしばしば、「ゆでガエル」にたとえられる。だんだん温まる湯の中にいるカエルは、逃げる機会を失い、ついにはゆで上がって死ぬ。変化が漸増して目につかないまま、私たちは危機に気づかずにいることを警告するたとえだ。だが、そのたとえは楽観的過ぎるだろう。私たちの資源の大量消費は、人類がかつて経験したことのないレベルに達しており、それはブレーキが利かなくなった「暴走」に近い。私たちは「環境に配慮」していれば済む時代に生きてはいない。21世紀は、私たちの「暴走」が地球環境にとてつもない負荷をかけ、それが避けようのない「危機」となって確実に降りかかる時代なのだ。

   斎藤さんの著作がいま注目されるのは、その逃れようのない危機を、初めて私たちの眼前に突きつけたからだろう。

   では、「ポスト資本主義」のビジョンはどのようなものか。それは直接、斎藤さんに語っていただくとしよう。

旧世代とは全く異なるマルクスとの出会い

   斎藤さんは現在、大阪市立大学大学院経済学研究科の准教授を務めている。5月11日、大阪にいる斎藤さんに、ZOOMで話をうかがった。

   私の最初の質問は、斎藤さんがなぜ、どのようにしてマルクスと出会ったのか、ということだった。

「私も初めは、マルクスをさほど意識はしていなかった。いくつかの経験が重なって、マルクスの思想の重要性に気づくようになりました。最初の経験は、アメリカの留学中にボランティアとして訪れたハリケーン・カトリーナの被災地で感じた貧富の格差でした」

   「カトリーナ」は05年8月、バハマで発生し、米東南部を襲った最大級のハリケーンだ。当時のブッシュ大統領はルイジアナ州に非常事態を宣言し、ニューオーリンズ市は50万人近くの市民に避難命令を出した。政府は州兵、連邦軍を派遣して救援・救出にあたったが、被害の甚大さに追いつかず、1千人以上が犠牲になった。

   斎藤さんはその年、コネチカット州に本拠を置くウェズリアン大学に留学していた。市域の大半が水没したニューオーリンズは、半年たっても復旧が進まず、多くのボランティアの手を借りねばならなかった。06年3月、大学のキリスト教系団体が募集していることを知り、友人と一緒にニューオーリンズに行き、現地の教会に寝泊まりしながら10日間ほどボランティアをした。

「日中は教会から出て車で被災地を回り、壊れた家で後片付けをしたり、建て直しをしたりしている人たちのお手伝いをした。半年たっても、復旧はまだ進んでいませんでした」

   そこで肌に感じたのは、被災の階層性、強烈な貧富の格差だった。富裕層であれば、業者に頼んで引っ越しをしたり、改築したりすることもできるだろう。だが、家を壊された貧しい家庭では、すべて自力で瓦礫や汚泥を片付け、建て直すしかない。半年後にもボランティアを必要としているのは、そうした人々だった。

   08年9月、サブプライム住宅ローンなどで巨額の損失を出したリーマン・ブラザーズが破綻して株価が暴落し、世界中の金融危機に連鎖した。いわゆる「リーマン・ショック」だ。

「ウェズリアン大の最終学年でした。その夏にインターンを済ませ、就職先も内定していた友人たちもいた。その内定が取り消されるのを見て、最先端の技術を駆使して膨張を続ける金融市場のもろさや、雇用の不安定さを実感しました」

   日本ではリーマン・ショック後に非正規や派遣社員が解雇され、その年の暮れには救済のための「年越し派遣村」ができた。

「この金融危機で、日本の貧富の格差や労働条件の悪化、不安定雇用の実態が本当に明らかになった。資本主義を根底から考え、批判的にとらえる視点が必要だ。そうした思いから、19世紀に資本主義の本質に迫ったマルクスを、本格的に研究しようと思いました」

   斎藤さんはその後、ベルリン自由大学で学び、2012年に修士課程を修了、その後は、やはりベルリンにあるフンボルト大学哲学科に進み、2015年に博士課程を修了した。ベルリンにはMEGAの編集本部があり、その編集に携わることで、後期マルクス研究の重要性を知った。

   ここまでの経験をうかがって、私はようやく、斎藤さん世代のマルクスとの出会いが、先行世代とはまったく異質であることに気づいた。

弥縫策では解決できないという危機感

   話は急に変わるが、来年は戦後77年にあたる。明治維新から敗戦までと同じ歳月だ。私は近年、敗戦を起点に年を数える以外に、新しい時代区分が必要だと考えている。長かった昭和を、敗戦の前後に区分けし、昭和前期と昭和後期とする。昭和の終わりは、ほぼバブル崩壊、冷戦崩壊に重なっているので、昭和前期は「戦争の時代」、昭和後期は「高度成長と繁栄の時代」と特徴づけることができる。だが、その後の「平成」、「令和」の時代は、「新憲法体制と平和」という点で「昭和後期」と共通するが、「低成長と顕著な少子高齢化」という点で、全く違う時代相になったともいえる。

   「昭和後期」世代のマルクス観は、昭和前期に弾圧されたマルクス研究者が一斉に教壇に復帰したこともあって、歴史、経済、社会科学全般でマルクス主義が隆盛をきわめた。他方、冷戦下では、マルクス主義を標榜する旧ソ連、中国などが自由主義陣営と対立したため、国内では親米保守と親ソ・親中国のマルクス主義的革新という図式に分かれた。

   だが、ソ連のスターリニズムの実態が明らかになるにつれ、親ソ路線は影をひそめる。若者の多くは反スターリニズム新左翼の路線を目指し、60年代末の学生運動、市民運動の高揚期を迎えた。だが、高度成長の恩恵で賃金が上がり、消費主義が行き渡ると、日本では「一億総中流」の幻想が生まれ、マルクスの思想は「過去の遺物」として忘れ去られた。これが、私も含めた「昭和後期」世代のマルクス体験だ。

   1987年生まれの斎藤さんは、ほぼ「平成」世代といっていい。冷戦期の東西対立も、繁栄が絶頂をきわめたバブル経済も経験していない。マルクス思想が国外では旧ソ連や中国と結びつき、国内では左翼や革新と親和性があった時代も記憶にない。

   代わりに直面してきたのは、世界経済のグローバル化、長期に低迷する国内経済、非正規の増大でますます地位が不安定になった雇用、貧富の格差の増大、環境問題の深刻化である。こうして山積する課題を分析する既存の社会・人文科学は細分化され、思想課題の代わりに精緻な実証分析や政策提言を重視する傾向を強め、問題の根源に向き合うことを避けてきた。

   この世代にとってのマルクスは、社会主義国家とは無縁の一思想家であり、左右や保守・革新の図式ともかかわりのない哲学者である。彼は「資本論」を著し、資本主義の根源にある原理を明るみに出したが、その後の思想的な苦闘は未完に終わった。その苦闘のあとを丹念に読み解き、マルクスが向き合った課題をいまに即して考え、社会に問題提起する。それが新世代にとってのマルクス体験だろう。

「19世紀はマルクスの時代だった。20世紀はケインズの時代でした。21世紀は、19世紀とは全く違う意味で、環境問題や,協同体の在り方を思想課題に据えた先駆者として、再びマルクスが脚光を浴びると思う」

   振り返ってみれば、兆候はいくつかあった。21世紀初頭、日本では小林多喜二の「蟹工船」が若者たちの間でブームになった。「ワーキング・プア」や「格差社会」、「ロスト・ジェネレーション」などの新語が次々に生まれた。富が公平に再分配されないことが格差や社会の不安定を招くというトマ・ピケティの「21世紀の資本」は2014年に日本でも出版され、ベストセラーになった。

   グローバル化が国内の格差を拡大し続けた米国では、最富裕の1%が支配する社会への異議申し立てとして「オキュパイ」運動が生まれ、前回と今回の大統領選では、民主党の候補者が一本化されるまで、大勢の若者たちが、民主社会主義を自認するバーニー・サンダース上院議員を熱烈に支持した。

   こうした潮流は、もはや資本主義というシステムそのものが限界に近づき、弥縫策では修復できない、という「99%」の声を背景にしている。

   そして、最後のダメ押しになったのが、気候変動対策の虚妄を衝き、「今こそ行動を」と呼びかけた環境活動家グレタ・トゥンベリさんら後続世代の怒りと抗議だったろう。

   「環境問題」といえば、異常気象による自然災害が頻発する近年まで、日本では、他人事の風潮が長く続いていた。

   03年から06年にかけてロンドンに駐在した私は、欧米と日本の意識の落差に気づくことがあった。当時すでに、北極圏で溺死するホッキョクグマの映像が繰り返し放送されていた。地球温暖化による海氷の縮小・分割で遠くまで出かけ、力尽きたのだという。欧州北部や米国・カナダにとって、北極圏の変化は「目の前の危機」として迫っていることを知った。スウェーデンのトゥンベリさんにとって、地球温暖化はまさに故郷の自然を変える「目の前の危機」であり、それが欧米を中心に伝播したのは、同じ危機意識という共鳴盤があったからだろう。

   話を斎藤さんの体験に戻そう。斎藤さんはハリケーン・カトリーナで自然災害の凶暴性と被害の階層性を間近に体験し、続くリーマン・ショックと「派遣切り」を目にしてマルクス研究に向かった。つまりその軌跡は、これまで述べてきたグローバル化の矛盾や、環境危機に直面する世代の潮流にぴたりと重なっているのだといえよう。

コロナが可視化したグローバル資本主義の限界

   インタビューの中で私は、斎藤さんの著作が注目された理由として、環境問題を中軸に据えたこと、マルクスの思想課題をさらに突き詰めようとした意外性という二点があるのでは、と問いかけた。斎藤さんはすぐに、「もう一点あると思う」と答えた。

「それは、コロナというパンデミックと、出版の時期が重なったことです。経済がすべて順調で、社会が安定していた時期なら、『人新世』という言葉も理解されず、本もこれほど読んでいただけなかったかもしれません」

   その意味はこうだ。パンデミックは宿主の動物に接触して人に感染したウイルスが、ヒトヒト感染型に変異して広がる。それが瞬く間にパンデミックになったのは、ヒト・モノが膨大に行き交うグルーバル化の時代になっていたからだ。これまで世界経済は、絶えざる経済成長、あくなき技術革新による競争に明け暮れてきたが、ふと気づけば、私たちを感染から守るすべは隔離や手洗い、マスク着用といった原始的な手段しかなかった。

   しかも、感染は平等に人に襲いかかるといっても、そのリスクは、日々現場で仕事をせざるを得ないエッセンシャル・ワーカーや、貧しい人々・地域に集中している。ワクチンができても、まず豊かな先進国が手に入れ、「グローバル・サウス」の国や地域、人々は、後回しにされてしまう。

「コロナによって人々が気づいたのは、私たちはこの社会を、もっとエッセンシャルなものを大事にし、持続可能なものに変えていかねばならない、ということだったと思う。今の危機に立ち向かうには、マルクスが向き合ったように、資本主義というシステムそのものや、成長主義の限界に挑み、もっと大胆に社会を変えていかねばならない。今回の危機は、そうした私の主張に興味を持って頂ける機会になったかもしれません」

   コロナが可視化したものは、グローバル資本主義の限界だった、と斎藤さんは指摘する。第2次大戦後、1950年代、60年代は資本主義の「黄金期」だった。インフラが整備され、車やエアコン、テレビが家庭に普及し、生活水準は改善された。それは経済のパイが大きくなる例外的な時代だったからだ。だが20世紀末に近づくにつれ、GDPの伸び率は鈍化し、資本家は自らの取り分を増やすことに躍起となる。むしろ、19世紀的な世界観への逆行だ。

   実体経済は成熟状態に入り、国内市場は飽和状態に近づいて買い替え需要も落ちていく。設備投資をして何か新しいものを作るというインセンティブが落ち、資本は企業に内部留保し、そこから金融市場に投資して稼ぐ道を選ぶようになる。資本主義はすべてを商品化し、需要を喚起するため、それまで誰もが享受できていた水や電気、医療や教育などにも格差が生まれ、最低限必要な暮らしを維持することも困難な貧困層を生み出す。

   他方、先進国の市場が飽和しているため、資本は周辺国にフロンティアを求め、安価な労働力や資源、環境を収奪するようになる。これがグローバル化だ。その結果、「グローバル・サウス」の環境や労働条件はさらに悪化するが、生きるために彼らはその環境や条件の劣化を受け入れざるを得ない状況に置かれている。

   斎藤さんは、こうした際限のない現在の成長主義を続ければ、すでに進行している環境危機をとめることはできず、格差は広がり続けるという。

「こうした行き詰まりを打破するため、もう一度実体経済を活性化しようとして提唱されたのが、グリーン産業です。技術革新で効率化を図って脱炭素を目指し、再生可能エネルギーにシフトし、社会のインフラそのものを取り替える。政治家も財界も、そこに希望を託している」

   だが、「人新世の『資本論』」が論証しているように、経済成長と排出量の「デカップリング」は困難だ。大量生産大量消費のスタイルを変えない限り、効率化は新たな需要を喚起し、環境負荷をさらに高める悪循環に陥りやすい。では、代替策はあるのだろうか。

「今回のパンデミックを通して、二つの議論が注目を集めた。一つはベーシック・インカムです。全ての人に最低限生きていく上で必要な金を配ろうという考えです。パンデミックの下で、そうした一律給付金を配る国も少なくなかった。だがこれは、社会運動や労働運動が弱まっていることの裏返しとも言える。ベーシック・インカムにするなら年金や社会保障もなくす、という議論を招きかねない。もし本来のベーシック・インカムを実現する力があるなら、資本主義システムを大きく変えることもできるはずです」

   斎藤さんが挙げるもう一つの議論は、「MMT」(現代貨幣理論、現代金融理論)だ。自国通貨建てで国債を発行できる日米のような国は、財政破綻しないので、より財政を拡張し、所得や雇用を増やすべきだ、という主張だ。こうした政策を採ればインフレが懸念されるが、デフレ脱却を目指すアベノミクスのもとでは物価上昇目標に届かず、皮肉な形でこの主張を後押しした。コロナ禍の下で、巨大な財政出動で危機に対処する国は多く、結果的に「疑似MMT」になった、との指摘もある。だが斎藤さんはこういう。

「これまでの経済危機にあたって、MMT的な財政出動をしても、その多くは成長目的以外には使われてこなかった。過剰流動性は株や金融・不動産市場に向かい、バブルを生んでは弾けていくという繰り返しだった。コロナ禍でも株や不動産が高値を続けるという逆説です。MTTは、根本的な格差をなくしていく、という方向に働く保証はどこにもない」

   では、斎藤さんにとって、脱成長を目指す「ポスト資本主義」のモデルとは何か。そして、その萌芽はあるのだろうか。

「コモン」再生を目指すコミュニズム

   これまで触れてこなかったが、「人新世の『資本論』」の後半では、後期マルクスが自然科学や環境だけでなく、世界各地の共同体研究に没頭し、西欧が目指すコミュニズムの構想そのものを変えようとしていたことが、詳しく描かれている。伝統的な共同体は経済成長をしない循環型の定常型経済を基本としていた、という発見である。初期マルクスはインドなど非西洋社会を受動的で進歩のない、停滞した社会と切り捨てていた。それが、生産力至上主義や西欧中心主義という批判を浴びてもきた。だが晩期になるにつれ、マルクスは定常型社会に依拠した持続可能性と平等が、資本への抵抗力になり、将来の西欧社会の基礎になると結論づけた、という。つまり、ここでいう「コミュニズム」とは、「社会主義を実現した後に目指すべき共産主義」といった政治プログラムとはまったく縁のない、ニュートラルな社会理念、といえる。ソ連型国家社会主義は、「生産力至上主義」という点では、欧米型の資本主義と共通している。

「私が言うコミュニズムは、アメリカ型の新自由主義経済でも、旧ソ連社会主義のどちらでもない、第三の道です。つまり、市場原理主義に沿ってあらゆるものを商品化するのでも、あらゆるものを国有化するのでもない。誰もが共有し、共同で管理する『コモン』(共有財)を回復し、持続可能な社会にしていく。それを晩期マルクスの用語にならって『コミュニズム』と呼んでいます」

   マルクスは来るべきコミュニズムを、生産者たちが生産手段や地球そのものを「コモン」として共同で管理・運営する社会を思い描いた。これは、ソ連のような一党独裁・国営化路線とは全く違う社会だ。

   水や土壌のような自然環境、電力や教育、医療といった公共財は、本来は、だれもが平等に享受できる「コモン」であったはずだ。だが、商品化や稀少性を価値の源泉とする資本主義は、環境や労働力を収奪しつつ、そうした「コモン」を囲い込んでしまった。その結果、人々は生存基盤を獲得するために、ますます長い時間働き、格差は広がって、最低限必要なものすら入手できない貧困がうまれている。だが、「コモン」を回復する方法などあるのだろうか。斎藤さんはこういう。

「マルクスは協同組合的な、アソシエーション的な存在に注目してきた。国家でも私企業でもない中間的な協同体です。晩年のマルクスが執筆した『ゴータ綱領批判』には、将来の社会の構想として、『協同的富』が一層豊かに湧き出ると書かれている。これは彼が研究したゲルマン民族の共同体的な富の管理方法を指すと考えるのが自然です。つまり、彼は、誰もが享受できる公共財を共同で管理する方式を再構築し、定常型経済を目指すべきだと考えていた」

   経済成長をスローダウンし、スケールダウンするという主張は、後ろ向きと受け取られがちだ。口では「清貧」や「自然回帰」にあこがれるといっても、それは生活を支える潤沢な資金があればこその話ではないか。だが「潤沢さ」について、斎藤さんはこういう。

「でも、豊かさや便利さは、潤沢を意味しません。これほど便利になり、新しい商品が次々に出ても、絶えず競争にさらされ、死ぬほど働かないと生きていけない。満員電車にすし詰めになって出勤し、コンビニの弁当を食べ、ユニクロの服を着る。自然と触れ合い、余暇を楽しむ心のゆとりさえない。それが潤沢といえるでしょうか」

   コモンを再生し、コモンを共同で管理する。齋藤さんはその萌芽は少なくないという。

「資本家や株主ではなく労働者が協同出資して共同管理する労働者協同組合はすでに世界各地に定着している。それだけでなく、コモンの『ラディカルな潤沢さ』を取り戻す試みが、各地で始まっています」

   その例として斎藤さんが挙げるのが、「フィアレス・シティ(恐れ知らずの都市)」という旗を立て、国家が押し付ける新自由主義的な政策に抵抗し、「みんなのための町」を宣言したスペインのバルセロナだ。同市は昨年「気候非常事態宣言」を出し、2050年の脱炭素化という目標と包括的な行動計画を明らかにした。地産地消の再生可能エネルギーで地域経済を活性化させ、貧困対策、雇用創出に結びつける。気候非常事態に本気で取り組むためには、持続不可能で、不公正な経済モデルを転換しなくてはならない、という考えだ。

   そのために、先進国の大都市は「協同的なケア労働」を重視し、「誰も取り残されない」社会への移行を先導する責任がある、と同市は表明した。その費用を担うのは「最も特権的な地位にある人々」だというのである。

   この「フィアレス・シティ」にはアムステルダムやパリ、グルノーブルなど、さまざまな都市の政党や市民団体が賛同し、ネットワークを形成しつつある、と斎藤さんはいう。

   重要なのは、こうしたネットワークがアフリカ、南米、アジアにも広がり、「グローバル・サウス」との連帯を模索していることだ。

「新自由主義経済は、外にはグローバル化、内には民営化路線を推し進めてきた。それが本当にリスクを減らし、リジリエンス(回復力)を高めることにつながっていなかったことが、今回のパンデミックで明らかになった。ポスト・コロナ社会では、『まず経済のV字回復を』という声が高まる可能性が高いが、その後も気候変動はもっと大きな危機を突きつけてくる。世界はパンデミックをきっかけに、公衆衛生やエッセンシャルワークの重要性に気づき、すべてを市場任せにしてはいけないという意識が強まっている。次に来る後戻りできない危機を前に、連帯して、立ち上がるべき時です」

ジャーナリスト 外岡秀俊




●外岡秀俊プロフィール
そとおか・ひでとし ジャーナリスト、北大公共政策大学院(HOPS)公共政策学研究センター上席研究員
1953年生まれ。東京大学法学部在学中に石川啄木をテーマにした『北帰行』(河出書房新社)で文藝賞を受賞。77年、朝日新聞社に入社、ニューヨーク特派員、編集委員、ヨーロッパ総局長などを経て、東京本社編集局長。同社を退職後は震災報道と沖縄報道を主な守備範囲として取材・執筆活動を展開。『地震と社会』『アジアへ』『傍観者からの手紙』(ともにみすず書房)『3・11複合被災』(岩波新書)、『震災と原発 国家の過ち』(朝日新書)などのジャーナリストとしての著書のほかに、中原清一郎のペンネームで小説『カノン』『人の昏れ方』(ともに河出書房新社)なども発表している。