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「ウマ娘」が描き切れなかった、競走馬サイレンススズカの濃密すぎる4年半

   「ウマ娘 プリティーダービー」アニメ第1期で主人公格のキャラクターとして描かれたのがサイレンススズカである。1998年11月1日、秋の天皇賞での悲劇的な最期のためか、ウマ娘では儚げな美少女キャラクターが同じ名前をいただいた。

   「沈黙の日曜日」で突然絶たれたサイレンスズカのドラマだが、デビューから「逃げ馬」の名声を確立するまでにもドラマがあった。そんなスズカの馬生と、ゲームの中での彼女の歩みを比較してみる。

  • 「ウマ娘」でのサイレンススズカ
    「ウマ娘」でのサイレンススズカ
  • 「ウマ娘」でのサイレンススズカ
  • 中京競馬場では碑文がつくられた(山根英一/アフロ)

遅れてきたダービー候補

   サイレンススズカは1994年5月1日生まれと、3・4月の出生が多い競走馬の中では遅めの時期に生まれ、そして馬体重もデビュー時は436kgと小柄な馬だった。デビュー戦も遅めの4歳(現3歳)2月で、舞台は京都芝1600mだった。

   そのデビュー戦でスズカは逃げた。2番手がほぼ斜め後ろで追走できる抑え気味の逃げだったが、一本のムチも入れなかったどころか、4コーナーで気合を入れてからは一切追わず、結果2着馬と1.1秒差で約7馬身差の圧勝劇だった。

   鞍上は上村洋行騎手だったが、後々主戦となる武豊騎手も同じレースに騎乗しており、後ろからそれを見ていた。同じ日にはもう一つ同じ距離で新馬戦があったのだが、時計が1分37秒8。これに対してスズカの時計は1分35秒2と2秒6もの差があった。遅れてきたダービー候補という評価を受けるのは当然で、それまで有力とされてきた馬たちにとっては脅威の存在であったのだ。

   「逃げ馬」ぶりはゲーム「ウマ娘」でも忠実に描かれ、ゲーム内のストーリー1話でトレセンでの模擬レースを大逃げで快勝したシーンが登場する。道中7馬身の差をつけて逃げ、そのまま逃げ切って「気持ちいい...」と漏らすスズカ。史実のデビュー戦の再現であろう。

弥生賞での「事件」

   だが、2戦目となった1997年弥生賞で事件が起こる。サイレンススズカはデビュー直後に出たソエで強い調教ができておらず、なんとか皐月賞の出走権を得るために強行気味に弥生賞に出走した。2番人気で迎えたレース、各馬ゲートインとなったところでサイレンススズカがしゃがみ込んでしまい、さらにはゲート下を潜り出てしまったのである。この影響で上村騎手は足を痛めてしまった。

   なんとか馬体検査を受けて出走は可能となったが8番枠から大外発走になってしまう。上村騎手は無理を押してそのまま騎乗。だが、結局ゲートが開いた直後にサイレンススズカは暴れてしまい大きな出遅れ。それでも追いかけて4コーナーでは3番手まで上がるという脚を見せるのだが結果8着と完敗してしまったのである。

   その後、プリンシパルSは勝利するも、ダービーは9着に終わる。

   一度ゲートを潜ったことで気性の心配をされたサイレンススズカにメンコ(覆面)がついたのは、ダービーの大歓声で興奮させないために耳を覆うためである。ウマ娘でのスズカは緑の耳をピョコピョコかわいく動かしているが、これを見るたび、「景色に集中させたい」とでも言えるような当時の厩舎関係者による懸命な歩み寄り、寄り添ってきた努力の形が思い出される。

   ダービー完敗後、上村騎手は「いろいろなことを求めすぎた結果、とうとう精神的にキレてしまったんです」というコメントを残している。ウマ娘でのスズカならば会話ができるので気持ちを汲むことができるが、史実のスズカは当然話せない。気持ちを汲み取るのは相当大変だっただろう。

自然に走らせてみた結果...

   厩舎関係者、上村騎手、ともにスズカの能力を出させてあげる答えが出たのが次戦となった神戸新聞杯だ。

   「好きなように駆けさせてあげよう」。簡単に聞こえるが、ペースや展開がある競馬においてその判断は容易ではなかったはずだ。上村騎手はこのレース、一切追っていないし止めにもいっていない。自然と逃げに行ったのである。

   だが4コーナーまで後続に3馬身の差をつけ快勝ムードが漂ったところ1頭だけ猛烈な追い込みをみせてきた馬がいた。その後菊花賞を勝つマチカネフクキタルである。直線に入って追ったのが遅すぎた結果となり、マチカネフクキタルに交わされて2着と敗れてしまったことで、上村騎手は主戦を外されてしまった。

   好きに逃げることで好走はできた。だが、史実のスズカはそう簡単にはいかなかった。

   サイレンススズカには左旋回癖があった。アニメでも悩むと左回りでぐるぐる回るし、ゲームでのローディング画面でもたまにスズカが左回りでフラフラしているシーンが描かれている。一見可愛らしいように見えるが、蹄鉄のすり減りや馬体のバランスにも影響するので現実の競馬ではあまり褒められた癖ではない。

   この癖を治そうと厩舎関係者は天井から畳を吊るして行動を制限させる試みをしたエピソードがあるのだが、それがむしろストレスになったとも言われ、まだスズカは圧倒的な強さを見せることができなかった。

「自由」を得て逃げまくった1998年

   最後の転機は香港競馬から招待馬として選出され、香港国際カップに出走した1997年の香港遠征である。上村から主戦を引き継いでいた河内騎手は別のレースが決まっていたため、鞍上となったのが、武豊騎手だ。

   武ジョッキーはサイレンススズカに「完全に自由に」走らせる選択をとった。1800mのレースだったが、1000m通過が58秒2という時計で逃げ、結果5着に敗れたものの「抑えず競馬したほうがいい」という確信を得たのである。そもそも生まれもデビューも遅めで小柄だった馬、古馬となって完成する可能性を秘めていた。スズカの成長と、時間をかけたスタッフの理解があって、翌年からスズカの快進撃が始まるのである。

   1998年のスズカは気持ち良いくらいに逃げ、勝ちまくった。1800-2200mのレースに条件を定めて破竹の6連勝。連勝の始まりのバレンタインSですでに後続を10馬身離して逃げ、2着と0.7秒差をつけて圧勝してからは一切の「我慢」をやめた。解き放たれたスズカに敵はいなかったのである。

   そしてやはり、ウマ娘のシナリオにも含まれる伝説の金鯱賞に触れないわけにはいかない。単勝は最終オッズ2.0倍であったが、2倍つくのかつかないのか、普段2倍の単勝なんて買わない私もドキドキしながらなけなしのお金で単勝を買っていた。

   レースでスズカは鞍上の武騎手が手綱を動かすことなくすんなり先頭を走ると、伸び伸びと前に進み続け、手綱を持ったまま道中の時点で後続に大差をつけて逃げ、そのままムチ一つ入れず大差のまま逃げ切った。1頭だけ違う次元でレースをしていたという表現がぴったりなのではなかろうか。

   もはや自由を手に入れたスズカと、寄り添えた関係者にとって騎手が替わることに問題はなかったのかもしれない。宝塚記念は武騎手ではなく南井克巳騎手となった。これは本来宝塚記念を目指していなかったスズカ陣営がファン投票選出もあって出走を後から決めた影響で、武豊騎手はエアグルーヴ騎乗の先約があったためである。

   「どちらもいい馬で、どちらか回避してくれないかと思った」と武豊騎手が後に語るほど悩ましい選択だっただろう。そして、スズカは毎日王冠、運命の天皇賞(秋)へと歩を進めた。

ウマ娘で「迷走期」にトレーナーが出した答え

   こうしたサイレンススズカの歩みを、「ウマ娘」ではゲーム育成システムの絡みもあって、史実通り完全な再現はできなかった。デビューは遅い時期であったためジュニア級の時期はレースをしていなかったわけだし、そもそも複雑で多くの競馬ファンが「迷走していた」といわれる時期を全て盛り込むことは厳しかっただろう。

   それでもストーリー1話で模擬レースを勝った後、2話では8着と敗れた弥生賞をイメージしたであろう物語が展開される。初代のトレーナーは我慢しない逃げではなく抑えて駆けるようにとの指示を出し 、自由に走れないことで完敗してしまうというものだ。

   その後トレーナーが交代し、実際ゲームをするプレイヤーはこの時点からサイレンススズカのトレーニングに関わるようになる設定。だから、育成シナリオでのデビュー戦が史実の3戦目で逃げて快勝した阪神芝2000mなのであろう。

   史実の2戦目である弥生賞での内容がゲームでは違っているが、当時の競馬ファンがサイレンススズカに抱いた「一体何があったのか」と思える迷走からどうサイレンススズカの将来を考えるかに強いスポットが当たっていることは同じだ。

   そう、答えは「スズカの好きなように先頭の景色を見せてあげること」だったのだから。

仮想のライバル・エアグルーヴとの因縁

   先頭の景色を完璧に見た大差逃げ切り勝ちの金鯱賞は、ウマ娘でもスズカにとって転機となる。他のウマ娘にも衝撃を与え、スズカに挑みたいと心に火がつく。その次走となった宝塚記念で他馬に挑まれる形となるわけだが、史実通りに寄せ付けずに勝つと、エアグルーヴに話しかけられるシーンが登場する。

   少し遡るが、スズカとエアグルーヴにはウマ娘内では因縁が設定されている。ゲーム内のストーリー2話で8着となったシーンは史実での弥生賞のイメージのレースであるが、模擬レース2戦目でトレーナーの指示通りに逃げず抑えたレースをするスズカが苦悩する中、横からエアグルーヴがブチ抜いている。しかしエアグルーヴは模擬レース2戦目の基となっている弥生賞には出走していない。

   その後、ゲームでのエアグルーヴは宝塚記念で「成長したスズカ」と再戦する形になっている。そして宝塚記念でスズカが勝つと、エアグルーヴがプライドを賭けてスズカに再戦を申し込むのだ。

   史実で再戦は実現していないが、当時牝馬最強だった女帝エアグルーヴと、無敵と化したスズカが宝塚記念の後に再戦したとしたら、という可能性を用意し、それを宝塚記念後に挑戦の申し込みを笑顔で受けるスズカの姿として描いているのである。

   ウマ娘はゲームシナリオの制約上、デビュー時期が2歳相当のジュニア級に固定されているため現実との相違がどうしても発生するわけだが、そこを逆手に利用し、随所に「盛り込んできている」。なんと恐ろしいゲーム開発者の競馬愛だろうか。

   サイレンススズカの史実における最期の話はしない。ウマ娘でのスズカのシナリオは最後が天皇賞(秋)である。思う存分、逃げて勝たせてあげてほしい。シナリオのラストが10月後半となるため、その後のURAファイナルズやチーム戦向けの育成をするための調整期間もとりやすく、ゲーム上では非常に育成しやすいウマ娘の一人となっている。

   最後に、最初の主戦だった上村騎手は現在調教師として3年目。まだ重賞勝ちはないが、今年レイモンドバローズをG1に始めて出走させており、あのころスズカに寄り添った苦労がトレーナーとなって生きることで活躍してほしいと願うばかりである。

(公営競技ライター 佐藤永記