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「歌の宝塚、ダンスのOSK」と称されたレビュー劇団 流転・解散経て100周年...大阪で復活の原動力

   女性だけで構成されるレビュー劇団・OSK日本歌劇団(OSK)は2022年に前身・松竹楽劇部の創設から100周年を迎え、1月30日には創立100周年記念式典が挙行された。

   現存するレビュー劇団としては宝塚歌劇団に続いて100年を迎えることができたOSKだが、昭和期には芸能史に残るスターを輩出しながらも身売りに本拠地の移転、解散後の再結成と波乱の歴史をたどってきた。盛衰の過程と、復活の原動力を芸能史に詳しいライター・評論家の小針侑起さんの解説をもとに探った。

  • 100周年記念公演が行われた大阪松竹座(OSK公式インスタグラムより)
    100周年記念公演が行われた大阪松竹座(OSK公式インスタグラムより)
  • 100周年記念公演が行われた大阪松竹座(OSK公式インスタグラムより)

「歌の宝塚、ダンスのOSK」

   OSKは現在、トップスターの楊琳さんをはじめ男役・娘役を合わせて52人の団員が在籍。出演者の新型コロナ感染に見舞われたものの公演期間を縮小して大阪松竹座(2月18日~20日)と東京・新橋演舞場(3月25日~27日)で100周年記念公演「レビュー春のおどり」を上演する。この、毎年春に大阪・難波の松竹座で上演する日舞と洋舞で構成されるレビュー「春のおどり」の他、ショー・レビュー公演を上演している。ミュージカルも上演する宝塚に比べるとショーの要素が強い。女優の京マチ子、「東京ブギウギ」を歌った歌手の笠置シヅ子もOSKの卒業生であった。

「大阪ローカルの劇団というカラーが強くなって、東京の人達には馴染みが薄いかもしれませんが、戦前には宝塚と並ぶ日本一のレビュー劇団でした」(小針さん)

   OSKの前身、松竹楽劇部の設立は1922(大正11)年。当時は浅草オペラや宝塚などで西洋音楽を日本演劇に取り入れる運動が盛んで、松竹楽劇部も時流に乗った

「松竹は1918年頃に男女混合のオペラ劇団『ミナミ歌劇団』を立ち上げたのですが長続きせず、1921年頃には解散してしまいます。その後、西洋舞踊の中でもバレエを採り入れた少女歌劇として松竹楽劇部が発足します」

   1920~30年代は少女歌劇の流行期でもあり、宝塚・松竹の他にも全国各地で劇団が作られ、遊園地などで興行が行われた。松竹楽劇部は1926(大正15)年に「春のおどり」と名付けた公演を初めて上演。この時はまだ日本舞踊中心の舞台だったが、昭和初期にはシャンソンやジャズなどを取り入れ、洋風レビューが人気を博していく。現在も公演で歌われる愛唱歌「桜咲く国」も1930(昭和5)年に制作された。

1929(昭和4)年のレビュー「春のおどり」の絵葉書(小針侑起さん所蔵、以下同))
1929(昭和4)年のレビュー「春のおどり」の絵葉書(小針侑起さん所蔵、以下同))

   1928(昭和3)年には東京でも東京松竹楽劇部が発足、こちらが後に松竹歌劇団(SKD)となる。大阪と東京はそれぞれ大阪松竹少女歌劇団(OSSK)、松竹少女歌劇団(SSK)となり、さらに改称を経て戦後は西のOSK、東のSKDとして協調関係にあった。

   発足したばかりの東京松竹はスターが不在だったことから、すでにスターが育っていた大阪組の手を借りて舞台をつとめたことも度々ありました」」(小針さん)との背景があったが、大阪と東京でそれぞれのスターが登場し、「歌の宝塚、ダンスのOSK」と称される黄金期に入る。大人数での統制の取れたダンスを売りとしたOSKには飛鳥明子・アーサー美鈴・秋月恵美子と いったスターが現れ、笠置シヅ子も1928年に「三笠静子」の芸名でOSKに入団、ダンサーとして活躍する。SKDにも1期生に男役スターで女優としても長く芸能界で活躍するターキーこと水の江瀧子がいた。

戦前からの男役スター秋月恵美子と娘役スターの芦原千津子
戦前からの男役スター秋月恵美子と娘役スターの芦原千津子
笠置シヅ子もOSKの卒業生だった
笠置シヅ子もOSKの卒業生だった

大阪のモダンなジャズ文化を担う

   OSKは大阪に本拠を置き、常打ちの劇場として初代松竹座と大阪劇場(1934~1967)を使用していた。いずれも道頓堀・千日前とミナミに立地しており、大阪のモダンな音楽文化と結びついていく。

「1930年代のOSKで特筆すべきことはジャズ・タップダンスなどの西洋の流行を率先して取り入れたことです。秋月さんらダンスが得意なスターが多く活躍し、大阪のジャズ文化の一翼を担いました。戦前の大阪は関東大震災の被害を受けなかったこともあり、大正から昭和にかけてジャズの都として栄えていましたが、そこにOSKの貢献もあったのです」

   OSK退団後はジャズ歌手でもあり、男女混合の「松竹楽劇団」のメンバーでもあった笠置シヅ子がブギのリズムを取りれた「東京ブギウギ」(服部良一作曲)を1947年にヒットさせたのも、このような下地があってのことであった。「大大阪」とも呼ばれ、繁栄した戦前の大阪を代表するレビュー劇団となったOSKだが戦後は退潮の時代に入る。

戦後の斜陽化と奈良への移転、解散と復活

   戦後も大阪劇場で公演を続けたOSKだが、浅草・国際劇場でのレビューを名物とした東京のSKDに対し知名度で劣っていく。

「戦後も秋月さんらのスターがOSKを支えたのですが、次第に大阪ローカルの存在になっていきます。松竹の映画などのメディアへの露出はSKDの方が多く、ターキーという抜群の知名度と人気を持った大スターもいました。ターキーに並ぶほどの大スターがいなかったのも一因だったでしょう」(小針さん)

   テレビの普及は映画の斜陽化をもたらし、1971年に松竹から近鉄に経営母体が移ると本拠地も大阪を離れて奈良市のあやめ池遊園地の円形大劇場に移ったが、近鉄もバブル崩壊後のレジャー事業の不振により、遊園地の閉園とOSKへの支援打ち切りを決定。2003年5月に一度は解散した。「広い舞台で多くの出演者で見せる豪華さがみどころのレビューでは、団員の減少や劇場の縮小は魅力を損なってしまい、厳しい時代になりました」と小針さんは話す。

   しかし解散後団員が「OSK存続の会」を立ち上げ、ファンの署名活動もあり04年には大阪松竹座で「春のおどり」を上演、団員の新規育成も再開された。現在は株式会社OSK日本歌劇団のもと独立した民間劇団となり、伝統のレビューや日舞に加えてミュージカルも上演し、大阪松竹座の他にも京都南座や東京での公演も行っている。2010年代には早くからニコニコ動画での公演配信にも進出し、公式サイト上では団員それぞれがブログを持っており、舞台の外でも情報発信は盛んだ。コロナ以前は訪日外国人向けのショーも開催し、大阪のエンタメとして松竹時代以来約40年ぶりにミナミに戻ってきた。

ニコニコチャンネルでは過去の公演動画などを配信している(ニコニコ動画より)
ニコニコチャンネルでは過去の公演動画などを配信している(ニコニコ動画より)

なぜ大阪で復活できたのか

   この間、東京のSKDも1982年に国際劇場が閉鎖、団員も減少して1996年に解散する。元団員が中心となったレビュー劇団「STAS」により後継の活動が続いているものの2022年時点で「SKD」を名乗る劇団はない。OSKが一度は解散しながらもかつての本拠地ミナミで公演ができるまでに復活した原動力は何だろうか。小針さんは

「OSKがここまで復活できたのは、古き良き大阪の象徴だったからとも思います。子どものころに家族でOSKのレビューを観た、という方たちもいて、そうした地元愛が解散後の存続運動につながり、今でも劇場にお客さんが入っているのだと思います」

   と考える。ミナミの大衆文化に根付いた劇団として伝統を受け継いでいるのがOSKだ。

(J-CASTニュース編集部 大宮高史)