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手足3本失い10年「僕は今、人生を楽しんでいる」 「奇跡で助かった男」は今日も誰かのために発信を続ける

   電車事故で右手と両足を失ったのは、ちょうど10年前の2012年7月24日のことだった。毎日「死にたい」と絶望していた山田千紘さん(30)は今、自立して会社に勤め、インターネット上では自身の生活などを盛んに発信。インスタグラムには日々多くのメッセージが届き、YouTubeの登録者数は13万人を超えている。

   「僕は今、人生を楽しんでいる」。山田さんは迷いなく言う。10年間を振り返って今、何を思うのか。ターニングポイントとなった出来事、その中で感じた自身の存在意義、発信を続ける意味、そして今後の目標とは。節目の年に、山田さんが思いを語った。

   【連載】山田千紘の「プラスを数える」~手足3本失った僕が気づいたこと~ (この連載では、身体障害の当事者である山田千紘さんが社会や日常の中で気づいたことなどを、自身の視点から述べています。)

  • 山田千紘さん
    山田千紘さん
  • 山田千紘さん

僕は命を助けてもらった

   10年前に電車事故で手足を3本失った当時は、今振り返ると「死」に等しい状態でした。体ではなく心が、です。

   横浜の病院のベッドでこの体に直面した時、「夢であってほしい」と思いました。自分の姿を見たくなくなり、この体を受け入れられませんでした。だけど、家族や友人、病院のスタッフ、いろんな人たちの支えがあって、下から前へ、見る方向が変わっていきました。

   これまでに何度も語ってきたけど、僕は手足を3本切断しただけではなく、命を助けてもらったんです。左腕を残してくれた。事故の前と同じように話すことや聞くこと、見ることもできた。なくなったものではなくて、あるもの、残っているものを見ることができるようになりました。そこから僕の人生がもう一度始まりました。

   「2年以内に自立する」というゴールを定めました。同い年のみんなが22歳で社会人になる年に合わせ、自分も社会復帰すること、それに生活も1人ですることを目標にしました。

   両足に義足をつけて歩行もできるようになりました。10年前、練習を始めた当時はバーの間を歩くところから始まり、杖あり、そして杖なしへと進みました。でも、すぐに早く歩くことはできませんでした。

   それが10年経った今、先日は岡山での義足の学会にモデルとして参加させてもらいました。義足メーカーの人からも「歩くのが上手い」と思われるくらいになりました。ツイッターでもこの間、「歩くの上手いと思ったらリツイートしてくれると嬉しいです 励みにして頑張ります!!」と歩行する動画を投稿したら、4200リツイートくらいしてもらえました。10年前からしたら想像つかないくらい上達しました。

   22歳で1人暮らしを始めて8年が経ちます。掃除、洗濯、料理と、家事は大体できるようになりました。会社に勤めて、毎日フルタイムで働きにも行っています。

   歩くのも、生活するのも、働くのも、多くの人にとっては当たり前の話でしょう。僕も10年前はそうでした。でも当たり前にあった手足がなくなって、「人生終わった」と思っていたんです。そこから「当たり前の日常」を取り戻すことができました。

   諦めなくて良かったと思います。何度か人生を諦めようとしたし、立ち直ってからも壁はありました。それでも改めて思うのは、自分の力だけではなく、周りのいろんな人たちが支えてくれたことで、困難を乗り越えられ、10年間歩んでこられたということです。

10年のタイミングで、横浜の病院で講演

   この10年のタイミングで嬉しい出来事がありました。先ほど話した、事故直後に搬送された横浜の病院で、病院スタッフの方々に向けて講演させてもらったんです。2年前くらいに病院から話を頂き、新型コロナウイルスの影響もあってできていなかったところ、2022年6月末に実現しました。

   10年前の救命スタッフや看護師さん、今働いている人たち、すでに辞めた方も含めて100人くらいが集まってくれました。「僕は今ここに立って皆さんにお話ができています。始まりは10年前、この病院で皆さんが僕の命を助けてくれたことです。明るさを取り戻し、歩けるようになったのも、病院の皆さんがいつも寄り添ってくれたからです。ここは僕の人生の始まりそのもの。今、改めてこの場を借りて感謝を伝えさせてください。僕を助けてくれてありがとうございました」。そんな思いの丈を30分間話しました。

   僕にとってすごく感慨深いことで、ドラマにできると思うくらい感動しました。10年前に病院へ運ばれてきた時の写真も見せてもらいました。改めて思うのは、「命が助かったのは奇跡だったんだ」ということ。搬送直後の写真は、手足が原型を留めていませんでした。出血がひどく、輸血の記録を見たら、人の体を1周する以上の量をもらっていました。朝までかかる長時間の手術の末、切断して命を助けてもらいました。

   僕の講演を泣いて聞いてくれている人もいました。僕自身も込み上げてくるものがあって、我慢していたんですけど、どこかの瞬間で抑えられなくなって泣きました。「この景色を見ることができなかったかもしれないんだ。何回も死にたいと思ったけど、この景色が見られて本当に良かった」と思いました。

   目の前にあること全て、良いことも悪いことも、生きていないと感じることができませんでした。そんな「今」があることの幸せを思うと、泣けました。あの時死んでいたら何も感じられなかった。「生きていて良かった」、そして「生かしてくれてありがとうございます」。そんな感情が込み上げてきたんです。

4つのターニングポイント

数々の経験をしてきた山田千紘さん
数々の経験をしてきた山田千紘さん

   手足を失ってからの10年で、ターニングポイントとなった出来事が4つほどありました。1つ目は事故から約2年後、社会復帰しようとしていた時です。リハビリを終え、職業訓練校に通って資格を取り、パソコンも学んで、就職活動を始めたけど、障害者雇用の求人の給与が低すぎる現実に直面しました。

   「僕は障害者なんだ。扱いが違うんだ。自立できないのか」。もっとすぐに1人暮らしできるくらい視界が開けるはずだと思っていたし、そのための準備もしてきたつもりでした。がむしゃらに頑張ってきたけど、壁にぶつかり、「人生面白くないな」とまたネガティブになってしまいました。

   就職活動の話はこの連載でも以前しましたが、僕は幸い良い企業に就職でき、無事1人暮らしする目標も達成できました。その後一度転職して、現在もバリバリ働くことができています。

   2つ目は2017年ごろ、本格的にインスタグラムなどのSNSを始めたことです。きっかけは大したことではなくて、みんなSNSをやっていたし、友達や知人に「手足3本なくても生活できているよ」と知らせることができると思ったから始めました。

   社会人1年目の2014年ごろ、僕は当時どうしても、手足を3本失った自分の体に抵抗がありました。「自信がなかった」というと少し違うけど、「隠していた」のは間違いないです。昔の写真を見ると、2015年も長袖長ズボンばかりでした。

   その感覚が徐々に変わっていきました。自分の体を認められるようになったのは25歳、2016年ごろから。気持ちがオープンになり、日頃から半ズボンを履いたり、腕も出したりするようになりました。写真を見るとこの年から半ズボン姿が見え隠れするようになり、2017年には完全に半ズボン大好きになっています。

   変わっていった理由は特にないです。気持ちの部分で、徐々に体を人に見られても抵抗がなくなっていきました。時間をかけて自然と自分らしさを取り戻せたんだと思います。だからSNSで自分の姿を発信できるようにもなりました。

手足を3本失った僕も、明るく笑顔で楽しく生きていける

   SNSを通じて出会った人はたくさんいます。乙武洋匡さんはじめ、障害があるいろんな人たちとも積極的に会うようになりました。いろんな人からメッセージも届きます。日常を発信しているだけだったけど、それが誰かに勇気を与えることに繋がっていたと、だんだん気付きました。僕の投稿を見た人から「救われた」といった声が届くことが少しずつ増えていったんです。

   手足がない子どもを産んだ母親から、「今後どう育てていけばいいか悲観する毎日だったけど、山田君の頑張りや明るい姿勢を見て救われた」「こういう風に育ってほしい、目標になった」といったメッセージをもらった時、何もしていないのに人の命を救ったような気持ちになりました。

   その中で、発信に対する意識は変わっていきました。僕の投稿を見て、希望を持ってくれる人がこんなにたくさんいる。いろんな人から日々届くメッセージは、発信を頑張りたいと思う力になっていきました。「手足を3本失った僕も、明るく笑顔で楽しく生きていける」。それを発信することの意味を感じたんです。

   目標にしていた自立は達成したけど、それが人生のゴールじゃない。「誰かのために発信したい」と思うようになったのは、こうしたSNSでの出来事がきっかけです。「この体で生きることが誰かの役に立つ」と気づきました。それは、生かされた僕にとっての存在意義であり、生きたいと思える活力、原動力、生きがいになっています。だからSNSを始めたことは、僕の人生の中で大きな転換点となりました。

   2020年にはYouTubeでの活動を始めました。これが3つ目です。始めた日は事故に遭ったのと同じ7月24日。YouTubeは媒体としての発信力も大きいし、長尺の動画で伝えられるので、より具体的に深く僕の存在を知ってもらえます。

   横浜の病院での講演が実現したのも、元をたどればSNSやYouTubeでの発信があったからでした。病院の人たちがインターネット上で僕の存在に気づいてくれて、連絡をくれたんです。僕が発信を始めていなかったら、この再会はありませんでした。僕の活動は誰かにとって、それと僕にとっても無駄じゃないんだと改めて気付くことができました。

   4つ目は2021年の7月24日に、書籍「線路は続くよどこまでも」(廣済堂出版)を出版できたことです。書籍を出すことは、僕の1つの目標であり、夢でした。自分が生きた証を残せると思ったからです。

   先程「存在意義」と言ったけど、形として自分が生きていたと分かる証が欲しいと思っていました。本を手に取った人に寄り添い、自分の人生と照らし合わせて豊かになっていく手助けができる、そんな本になればと願って出しました。実際に前向きになれたという反響が届いたので嬉しかったです。

   1つ目の就職活動はネガティブな転機。2つ目から4つ目のSNSやYouTube、本の出版は、この人生を歩んできて良かったとポジティブに思える転機でした。「自分にできることはもっとあるんじゃないか」と力が出てくるきっかけになった出来事でした。

僕は人生を楽しんでいる

   10年を経てこれからは、発信力をもっと高めたいのはもちろんのこと、この体で新しいことにチャレンジしていきたいです。

   8月には沖縄へ行ってスキューバダイビングをすることがもう決まっています。そして、今後5年くらいの目標は富士山の登頂です。熊本の釈迦院御坂遊歩道というところに、「日本一の石段」と呼ばれる3333段の階段があり、そこの踏破もチャレンジしたいです。どれも思いつきでできることではなく、入念な準備が必要だし、何より多くの方々の協力が必要不可欠です。

   僕が伝えたいのは「諦めなければ困難な壁も乗り越えられる」ということです。富士山登頂もそれを体現することだし、今までの人生もそうやって生きてきました。日本最高峰の富士山に、この両足義足と、片腕がない体で登りきったら、いろんな人に勇気や希望を与えられるかもしれない。僕自身がチャレンジして前に進む姿を見てもらいたいと思います。自分が生きた証をまた1つ残すこともできると思っています。

   10年前、横浜の病院の皆さんが生かしてくれたこの命。自分が何をどこまでできるのか、僕自身も分かりません。でも言えるのは「僕は今、人生を楽しんでいる」ということ。「この人生、どう楽しく過ごせるか」。いつもそう考えながら、僕は生きています。

(構成:J-CASTニュース編集部 青木正典)