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「おいしさ」とは何か 角田光代さんは愛猫に罪滅ぼしの「ちゅ~る」を

   オレンジページ(8月2日号)の「晴れの日散歩」で、作家の角田光代さんが「おいしいってなんだろう?」のタイトルのもと、人間と猫の「舌」を比べている。

   「猫に味覚はあまりないようである」と始まるこの随筆。筆者の飼い猫「トト」との長い付き合いを通した、ある種の観察報告にもなっている。

「我が家の猫はものすごく好き嫌いが激しくて、いったんいやだと思った猫缶は、どんなに空腹でも食べない...においとか、食べ慣れているかいないかだと思う。うちの猫が好んで食すのは、ウエットフードもカリカリも、幼少時から食べているものだけ」

   以下、彼女の筆は自らの食生活に切り込んでいく。

「外食で、夢のようにおいしい食事をしたときなど、私は猫のことを思うようになった。申し訳なくなるのである」

   ずっと同じもので構わない風情のペットと、会席料理や鮨など、無数の味覚に日々酔いしれる飼い主。その脳裏に、背中を丸めて食事をする愛猫の姿が静かに浮かび上がる。

「昨日、いや、一年前。いやいや六年前とも変わらないカリカリを、かりり、かりりとひそやかな音をたてて食べている。自分が大罪を犯している気になる」
  • 背中を丸めて食事中
    背中を丸めて食事中
  • 背中を丸めて食事中

人間のための猫おやつ

   そんなこともあって、角田さんは「おいしい」について深く考えるようになる。

「私たちにおいしいという感覚がなければ、もっと世界は合理的だったろう。食べものはサプリでいいのだし、二時間も三時間も食事にかけることもない」

   「でも」と、直木賞作家は続けて揺れる思いを語る。

「百年前より私たちの舌は何千倍もの味を知り、知覚し、『おいしい』を繁殖させているはずだ...その感覚がなければ、生きるたのしみはかなり減るが、でも、たとえばまずいものを食べて落ち込むこともないし、おいしいものが食べたいと欲まみれになることもない」

   最後に、話はニャンコに戻る。「多くの猫が大好きで、我が家の猫も夢中であるところの、『ちゅ~る』という、猫用の液状おやつ」のことである。

   おそらく、テレビで盛んに宣伝している「いなばのCIAO(チャオ)ちゅ~る」であろう。カツオやマグロ、ささみ味などの定番のほか、カニ、ホタテ、サーモン、それらのミックス、さらには乳酸菌入りなど百花繚乱らしい。

「これは、猫のためというより、人間のためにあるのではないか。おいしいイコールしあわせと考える人間のための、たくさんの種類なのではないか」

   角田さんは(たくさんの種類の)おいしいものを食べて帰ってきた日は、つい、このおやつをトト君に与えるそうだ。もちろん「毎回違う味で」。

「おいしい=しあわせ」?

   おいしいことが幸福感につながる人間の感性。これがはたして動物にあるのかないのか。食いしん坊の私としては、声を大にして「ない!」と言いたい。子孫繁栄を旨とする動物の食性は質より量が基本だし、次の生殖行為まで生き延びるための栄養補給だろう。

   しかし、角田さんの思考はそこで止まらず、家族としての猫に自らの美食を詫びている。詫びただけでは気がすまず、いなばペットフード株式会社(本社・静岡市)のごちそうを与えるのである。日ごろの飽食の罪滅ぼしとして。

   ここで私は、野生から人間社会に歩み寄り、あるいは引き込まれ、両者の境界で生きているペットという存在に思いを致す。門前の小僧なんとやらの例えがあるように、かれらの味覚の一部には「グルメっぽい何か」が入り込んでいるかもしれないと。入り込むとすれば、ワンコより、すまし顔のニャンコが怪しい(※個人の感想です)。

   秋元康さんに『世の中にこんな旨いものがあったのか?』という、いささかむかつくタイトルの著書(2002年、扶桑社)がある。そのあとがきに、執筆理由が記されている。

〈おいしいものを初めて食べた時の感動を、もう一度味わいたかったからである〉

   めでたく「ちゅ~る」を経験した全国の飼い猫たちは、朝晩の寄り合いなどで「初めて食べた時の感動」を語り合っているかもしれない。

冨永 格

冨永格(とみなが・ただし)
コラムニスト。1956年、静岡生まれ。朝日新聞で経済部デスク、ブリュッセル支局長、パリ支局長などを歴任、2007年から6年間「天声人語」を担当した。欧州駐在の特別編集委員を経て退職。朝日カルチャーセンター「文章教室」の監修講師を務める。趣味は料理と街歩き、スポーツカーの運転。6速MTのやんちゃロータス乗り。