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内田裕也、「日本ロックの父」
偉大な四つの功績

   タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」

   もし、彼がいなかったら日本のロックはどうなっていただろう。

   改めて、そんな思いに捕らわれている。

   連日、メディアで最も頻繁に語られてきたのは、スキャンダラスのようで深い愛情に結ばれた夫婦の生き方のように見える。でも、彼が何よりも語られなければいけないのが、まだ「ロック」という音楽が市民権を得ていなかった60年代終わりから70年代にかけてのことではないだろうか。

   彼がエルビス・プレスリーに憧れて音楽の世界に飛び込んだことはよく知られている。そして、ビートルズの日本公演の前座としてステージに立っていることもだ。

   20世紀の音楽の革命だったエルビス・プレスリーとビートルズ。黒人の音楽と言われていたブルースとロックンロールを結び付け、肉体的衝動という根源的なエネルギーを体現したエルビスとそれをバンドという形で発展させ、更にオリジナルという創作の手段に昇華させたビートルズ。その両方を目の当たりにした衝撃を日本の音楽として創出、定着させようとしたのが内田裕也だったと思う。

  • 「SATORI」(ワーナーミュージック・ジャパン、アマゾンHPより)
    「SATORI」(ワーナーミュージック・ジャパン、アマゾンHPより)
  • 「SATORI」(ワーナーミュージック・ジャパン、アマゾンHPより)

ザ・タイガースを発掘

   少なくとも60年代から70年代にかけて彼が残した四つの功績について語らなければいけない。

   一つは言うまでもなくザ・タイガースを発掘したことだ。大阪のライブハウスで歌っていたファニーズという京都のバンドをスカウトし上京させた。すでにブルーコメッツやスパイダースがエレキバンドとしてオリジナルを発表するようにはなってはいた。でも、ザ・タイガースがデビューしなかったら、あそこまで少年少女を熱狂させたグループサウンドのブームは生まれていなかっただろう。

   二つ目が、その後になる。

   ザ・タイガースをめぐって生じた軋轢で所属していた渡辺プロをやめて海外を放浪し、60年代末期のニューロックと呼ばれた新しい波の洗礼を受けた。帰国した彼が組んだバンドがザ・フラワーズというロックバンドだった。「武器よりも花を」というベトナム戦争に反対するヒッピーたちのシンボルが「フラワー」である。ヴォーカルの麻生レミは当時のロックの女王、ジャニスジョプリンのようなシャウトが鮮烈だった。でも、売れなかった。そう、彼の生きざまは、「売れない」という現実にめげなかったことだったと言いきってしまって良さそうだ。

   彼が70年にフラワーズを再編する形で組んだのがフラワー・トラベリン・バンドだった。自分がメンバーでもあったフラワーズと違いプロデュースに専念するようになった。

   内田裕也が、当時の音楽シーンで際立っていたのが「海外志向」だった。「ロックはインターナショナルな音楽だから英語で歌うべきだ」という持論は、当時、日本語のロックの元祖、はっぴいえんどとの「英語日本語論争」として残されている。

   フラワー・トラベリン・バンドは70年の暮れに日本を出てカナダに向かった。まだ日本で実績のないバンドをワーナーの世界的レーベル、アトランティックと契約を結び、海外発売にこぎつけたのは内田裕也とワーナーの担当ディレクター、折田育造の功績だった。現地でのライブを重ねながら制作した二枚目のアルバム「SATORI」は、カナダのアルバムチャートの10位以内にランクされ現地の音楽雑誌の表紙にもなった。ギターの石間秀機が弾くシタールのような音と土着的なリズム、ジョー山中のハイトーンのシャウト。西洋のロックにはない東洋的な世界は斬新だった。はっぴいえんどが「言葉」という意味での「元祖」だとしたら、「音」という意味で言えば間違いなく「SATORI」だろう。外国人には作れないロックを初めて聞いた、と思った。

オノ・ヨーコ呼び、ロックコンサートを定着

   海外での成功に意気揚々と帰国した彼らを待っていたのが「日本の現実」だった。フォークソングブームだ。72年。吉田拓郎の「結婚しようよ」が火をつけたシンガーソングライターのブーム。思うような評価を手にしないまま一年後に失意の中で解散してしまう。

   内田裕也の「反フォーク感情」は、70年代の彼の支えでもあったに違いない。泉谷しげると「ロック対フォーク」という決闘のようなライブまで行った。申し込んだのは内田裕也の方だ。同じようにグループサウンズ出身でフォークとの橋渡しになったかまやつひろしは生前「ロックかフォークかはっきりしろと迫られた」と話していた。

   三つめは、以前、この欄でも書いた74年の野外フェス、「郡山ワンステップフェスティバル」がある。福島県郡山市の陸上競技場を会場にした一週間に及ぶ野外イベントは、当時のロック系アーティストやバンドの大半が出演した。でも、もしオノ・ヨーコが参加しなかったら大手のメディアは見向きもしなかったはずだ。彼女の出演依頼に奔走したのも内田裕也だった。イベントは大赤字に終わり、地元のブティック主宰者は莫大な借金を負うことになってしまった。それでも、彼は、その後、後楽園球場などに舞台を移して「ワールドロック」を展開。日本のロックバンド、クリエーションを海外に送り出している。

   四つめは日本でロックコンサートを定着させたいという彼の生涯を賭けたイベント、73年に端を発した「NEW YAER WORLD ROCK FESTIVAL」になる。「紅白歌合戦」へのアンチ。去年で46回。どんな人たちが出演してきたか、機会があれば、自分の目で確かめて頂ければと思う。その多彩さに驚かれることは間違いないだろう。

   フラワー・トラベリン・バンド結成から50年目。今、若いバンドの中で英語で歌うことへの抵抗感はなくなっているようにも見える。ONE OK ROCKのように英語で歌いつつワールドツアーを展開しているバンドもいる。

   日本にロックを定着させたい。

   そのために戦い続けた半世紀あまり。

   内田裕也は「日本のロックの父」だったのだと思う。

(タケ)

タケ×モリ プロフィール

タケは田家秀樹(たけ・ひでき)。音楽評論家、ノンフィクション作家。「ステージを観てないアーティストの評論はしない」を原則とし、40年以上、J-POPシーンを取材し続けている。69年、タウン誌のはしり「新宿プレイマップ」(新都心新宿PR委員会)創刊に参画。「セイ!ヤング」(文化放送)などの音楽番組、若者番組の放送作家、若者雑誌編集長を経て現職。著書に「読むJ-POP・1945~2004」(朝日文庫)などアーテイスト関連、音楽史など多数。「FM NACK5」「FM COCOLO」「TOKYO FM」などで音楽番組パーソナリテイ。放送作家としては「イムジン河2001」(NACK5)で民間放送連盟賞最優秀賞受賞、受賞作多数。ホームページは、http://takehideki.jimdo.com
モリは友人で同じくJ-POPに詳しい。