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新たな創作意欲 瀬戸内寂聴さんは退院して47年前の得度を思う

   週刊朝日(11月27日号)の「老親友のナイショ文」で、瀬戸内寂聴さんが大怪我から退院までの顛末に重ねて、半世紀前の剃髪を語っている。5月の当コラムでも紹介したが、横尾忠則さんとの、つまり98歳と84歳の交換書簡という贅沢な企画である。

   寂聴さんは10月下旬の真夜中、京都の自宅「寂庵」の廊下で転び、顔面と頭を強打した。顔は腫れ上がり、ご本人は「お岩を怒らせたよう」「漫画の山賊の親分」「ボクシングで思いきり殴られたパンダ」などと自虐の形容。写真を見た横尾さんは遠慮なく「腐ったじゃが芋」と表現した。とはいえ今回の書簡は、退院の喜びで始まる。

「ヨコオさん 久しぶりに帰った寂庵は、紅葉の真っ盛りで、目の覚めるような金色のるつぼでした。四季いつの場合も寂庵は風情がありますが、何といっても十一月さなかの紅葉絶頂の時期ほど美しい時はありません」

   普段はきれいに剃り上げている寂聴さんの髪は、入院中、伸びっ放しだった。身の回りの世話をする女性に剃ってもらいながら、岩手県平泉の中尊寺で髪を落とした51歳の日を思い出したという。11月14日は寂聴さんの「得度記念日」でもあった。

「その朝見た中尊寺の紅葉の真紅の鮮やかさは、今も目の奥に残っています。よくまあ、あんなことを思い切ってしまったものだと、今更のように自分の無鉄砲さに呆れています...今から考えても、あの時の心境の本質は自分でも解りません」
  • 紅葉の季節、寂聴さんの胸には得度の日がよみがえる
    紅葉の季節、寂聴さんの胸には得度の日がよみがえる
  • 紅葉の季節、寂聴さんの胸には得度の日がよみがえる

自慢の長い黒髪を

   仏門に入る前、瀬戸内晴美さんの髪は長く濃く、豊かだった。「器量の悪い自分にとっては、ひそかに唯一の自慢にしていた黒髪」だった。

   1973年、人気作家の得度式には大勢が参集した。本堂の式場からひとり連れ出され、長い廊下を歩き、奥の小部屋に入ると、寺近くにある散髪屋の娘が待機していた。彼女は「ひゃあ! こんな人の頭、よう剃らん!」と泣きそうだった、という。

「それを係の坊さまが、何とかなだめて、大きなバリカンで、ぐさっと髪を落された時の感触が四十七年経った今もまだ、ありありと...バリカンが、かみそりになって、念入りに青坊主にされる間、壁の向こうから声明の渋い声が聞こえつづけていました」

   思い立ったら「そわそわと実行してしまうたち」の寂聴さん。

「私は浅慮でそそっかしいけれど、取ってしまった行動を、後になって後悔したり、あわてふためいたりしたことは、一度だってありません」

   禁酒と節制の入院生活から解放された寂聴さんは、寂庵のスタッフと真昼間からシャンパンで乾杯し、すき焼きを味わった。

「さあ! 書くぞ! コロナにならなくても人間何時、死ぬかわからない。せいぜい生きてる間に、好きな仕事をしなければ!! おやすみ」

三島に見せたかった

   寂聴さんは先の大けがについて、朝日紙上の別コラムでこう書いている。

〈右手が、肩から指先まで無事だったのが何より有難かった。右手さえ無事なら、まだ、文章を書くことが出来る。何度転んでも、なぜか頭は一度もけがをしていない...頭と右手さえあれば、まだ書きつづけられる...死ぬまで書きつづけたいと思っている〉

   100歳を前にして、とんでもない創作意欲である。幸い頭部のCTは異常なし。入院ついでに、悪かった足の手術やリハビリまで済ませたという。この気力と能力、そして加齢をあざ笑うかのような元気は、下の世代=高齢初心者へのエールとなる。

   その日の詳細を覚えているということは、寂聴さんにとって、51歳での得度がそれほど重大な転機だったということだろう。

   次週の同じコラムによると、寂聴さんの黒髪がバッサバッサと落されるのを見て、付き添いの姉が声を上げて泣き出した。部屋の外に忍んでいた記者たちは、寂聴さんが泣いていると思い込んで誤った情報を送ってしまったという。

   寂聴さんは手鏡の中を眺めつつ、涙は一滴もこぼさなかった。「三島由紀夫さん(その3年前に自決)にこの頭を見てほしかった」と思っていたそうだ。

   「そそっかしいが、後悔しない」という生き方、正真正銘である。

冨永 格

冨永格(とみなが・ただし)
コラムニスト。1956年、静岡生まれ。朝日新聞で経済部デスク、ブリュッセル支局長、パリ支局長などを歴任、2007年から6年間「天声人語」を担当した。欧州駐在の特別編集委員を経て退職。朝日カルチャーセンター「文章教室」の監修講師を務める。趣味は料理と街歩き、スポーツカーの運転。6速MTのやんちゃロータス乗り。