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パラ水泳の輪を広げたい 銀メダリストスイマー江島大佑が望む未来

【目指せ!東京2020】

   3歳の時から水泳のとりこになり、全てを捧げてきた。

   しかし、13歳の時に脳梗塞になり、左半身麻痺の障害が残ってしまう。

「その後はずっと何をするのにもやる気が出なかった。しかし、高校受験の年、2000年にシドニーパラリンピックをテレビで見て、僕が昔、漠然と思い描いていた五輪の舞台と同じ場所で、障害を持つ人たちが活躍しているのを目の当たりにし、パラリンピックを目指そうと思いました」

   江島大佑の新たな水泳人生が、始まった。(インタビュアー:石井紘人 @ targma_fbrj)

  • アテネ五輪で銀メダルに輝いた江島選手
    アテネ五輪で銀メダルに輝いた江島選手
  • アテネ五輪で銀メダルに輝いた江島選手

軽くあしらわれ「いつか勝ってやる」

江島:いざ「パラリンピックを目指そう」と決めたものの、当時は僕と同じ障害で水泳をやっている人がいなかったこともあり、昔のイメージで泳ごうとするのですが、実際には溺れた状態になってしまう、という過去と現実のギャップに悩まされていました。
そんな僕を変えてくれたのが、高校時代の恩師の「障害があろうがなかろうが、プールの中では特別扱いはしない」という言葉です。それまでは、僕自身が「障害者だし」という諦めのような感情を持っていました。泳ぎ方にしても、健常者の泳ぎ方に近付けるのが正解で、近道だと思っていました。しかし、もう過去の自分には戻ることはできない。この左半身麻痺の「新しい江島」を、一から構築していこうと考え直しました。

――オリジナルの泳ぎ方を見いだし、高校二年生で日本代表に選出されます。国内では、デビューから負けなしでした。

江島:鳴り物入りでしたね(笑)。当時は障害を負ってから水泳を始める選手がほとんどでしたけれど、僕は健常者時代に高いレベルの水泳に触れていたので、絶対に有利だと思っていました。
「楽勝だろうな」という気持ちで2002年に世界選手権に臨んだのですが、当時世界ランキング1位、英国のアンドリュー・リンゼイ選手に完敗しました...15秒くらい差をつけられました。さらに、握手を求めた時には「この人は誰?」と鼻で笑われて。その後も試合会場で会っても、軽くあしらわれ、「いつか勝ってやる」と気合が入りました。
江島大佑選手
江島大佑選手

――その後、2004年に初めてのパラリンピックとなるアテネ大会に出場し、銀メダルを獲得します。

江島:アンドリューとの決勝は、前半僕がリードしました。アンドリューはBBCのインタビューに「前半やられたことで、焦ってターンをミスしてしまった」と言っていましたね。ですが、残り15メートルで失速してしまい、アンドリューに逆転され、6秒差で敗れてしまいました。負けましたが、それまでとは違い、一矢報いることが出来た試合でした。

多様性を東京パラリンピックで根付かせたい

力強く泳ぐ江島選手
力強く泳ぐ江島選手

――多くの大会に出場されて結果を残していますが、一番印象に残っているのはどの試合でしょうか?

江島:2008年の北京パラリンピックです。
僕が予選決勝で、自身のベストタイムを2秒更新して、アンドリューに0.5秒まで迫ったのです。
でも結局は勝てなかったし、アンドリューは4位、僕は5位でメダルも取れなかった。落ち込んで歩いていると、BBCのインタビューを受けていたアンドリューが取材を止めてこっちを見ている。それまでずっと無視されていたのに......。
彼から「グレイト!」って握手を求めてきたのです。この瞬間が一番印象に残っています。
しかし、この大会でアンドリューは引退しました。2012年のロンドンパラリンピックでは勝つぞと意気込んでいたので、目標を失い、しばらくはモヤモヤしていましたね。

――そのモヤモヤが晴れたきっかけは何でしょうか?

江島:やっぱり東京五輪・パラリンピックが決まったことです。今までは、パラリンピックは海外のスポーツだと思っていたのですが、それが日本で開催される。 僕の中でロンドンパラリンピックの経験は凄く大きい。英国はパラリンピック発祥の地ということもあり、全てが違いました。アテネや北京の時は、パラリンピックは「五輪のあとの"お祭り"」でした。
ですが、ロンドンは「五輪が終わったから、次はパラリンピックだ!」というテンションなのです。たとえば、僕たちは日本代表のユニホームで入国するのですが、その時点で入国審査官から「パラリンピックの選手か?頑張れ!」と声をかけられる。観客も予選から満員で、メダルを取れなかった僕にも声援がある。
プライベートでも、僕がバスに乗ろうとしたら、サッカーの試合後で50人くらいの団体がぞろぞろ出てきた事がありました。一便目は乗れないなと思っていると、「You First」(君が最初に乗れ)と譲られたのです。バリアフリーを一般の人々が自然と体現している。そういったダイバーシティ(多様性)を、東京パラリンピックで根付かせたいと思っています。
競技面でも、「江島選手が北京パラリンピックでメダルを取ったのを見て、パラ水泳を始めました」と言ってくれた方がいました。僕もシドニーパラリンピックを見てパラ水泳を始めたので、東京パラリンピックでも数珠繋ぎにパラ水泳の輪を広げていきたいです。

――最後にパラ水泳の魅力を教えてください。

江島:水泳はシンプルに水の中で一番速い人を決める競技ですが、パラ水泳が面白いのは、泳ぎ方に個性がある点です。同じレース・クラスでもさまざまな障害の選手がいます。たとえば、両腕のない選手は足だけで泳ぎます。泳ぐ前に選手の障害を見て、「この選手は今からどういう泳ぎ方をするのだろう」と想像するのも、面白いと思います。その予想を超えてきますからね。

江島大佑(えじま・だいすけ)
1986年1月13日京都府出身。
名門のスイミングスクールで水泳を始めるが、13歳のときにプールサイドで原因不明の脳梗塞に。左半身に麻痺が残るが、高校では健常者と同じ水泳部で活動を行う。立命館大学に進学後、2004年のアテネパラリンピックでは初出場ながら4×50メートルメドレーリレーで銀メダルを獲得した。2006年にはワールドカップ50メートル背泳ぎで世界記録を樹立。2008年北京パラリンピックでは100メートル背泳ぎで5位入賞、50メートルバタフライでは4位入賞を果たした。2012年ロンドンパラリンピックは50メートルバタフライで5位入賞。
2016年リオデジャネイロパラリンピックは日本代表に内定しながら、原因不明の体調不良により辞退を余儀なくされた。
若手育成・強化のための合同合宿「エジパラ」を開催し、後進の育成にも力を入れている。

文:石井紘人(いしい・はやと)
ラジオやテレビでスポーツ解説を行う。主に運動生理学の批評を専門とする。著書に『足指をまげるだけで腰痛は治る』(ぴあ)『足ゆび力』(ガイドワークス)など。
『TokyoNHK2020』サイトでも一年間に渡り、パラリンピックスポーツの取材を行い、「静寂から熱狂そしてリスペクト」などを寄稿。
株式会社ダブルインフィニティ代表取締役でもあり、JFA協力、Jリーグと制作した『審判』、日本サッカー名シーン&ゴール集『Jリーグメモリーズ&アーカイブス』の版元でもある。