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忘れた漢字 五木寛之さんがそれでも手書き原稿をやめない理由

   週刊新潮(9月23日号)の「生き抜くヒント!」で、五木寛之さんが「忘れた漢字」をめぐるあれやこれやをユーモラスに書いている。

「歳をとると字も忘れがちになるものだ、と親鸞もこぼしている...ずばぬけた博覧強記の親鸞のことだから、そのショックもかなりのものだったにちがいない」

   仏教に通じた筆者らしく、話は自著もある浄土真宗の開祖から始まる。五木さんも、必要な漢字が思い出せず、文章がそこから先に進まないことが再三あるという。

「私の場合は忘れたわけではない。最初から憶えていなかったわけだから、がっかりすることはないだろう。辞書を引けばすむことだ」

   五木さんは、文壇ではもはや「絶滅危惧種」の手書き派である。筆者のボヤキを聞いた編集者は当然、パソコンでの執筆を勧めたそうだ。

「読みにくい原稿の字にうんざりしている感じが、おのずと滲みでていた。しかし、原稿用紙に万年筆で字を書くというのは、ただ仕事をこなしているというだけではない。漢字、仮名まじりの文章を書くという作業は、ひとつの快楽でもあるのだ」

   執筆が突然つまずくのは「書くべき言葉があっても、字が出てこない時」である。

「そこはどうしても漢字でなくてはしっくりこない...余白に試し書きをしてみるが、どれもちがう。素直に辞書を引けばいいのに...素直になれないのだ」

   ちなみに「つまずく」は〈足は質屋へつまずきながら〉と憶えたお陰で、「躓く」とすぐに出てくるそうだ。ところが、戦意高揚歌の一節〈泥水すすり 草をはみ〉の「すする」が出てこない。案外、意識せずに読めている字ほど浮かびづらいのかもしれない。

  • 辞書に頼れば楽ちん…でも素直になれなくて
    辞書に頼れば楽ちん…でも素直になれなくて
  • 辞書に頼れば楽ちん…でも素直になれなくて

ラテン語のように

「親鸞の時代には電子辞書などという便利なものはなかったはず...厄介な字を使うときには、何か分厚な辞書か専門書でも開いて確かめたのだろうか...ステイホームの憂さ晴らしに、『読めるけれども書けない漢字一覧』というリストでも作ってみようか」

   五木さんは、ある雑誌の論評に冒頭から〈コーポレートガバナンス〉〈サスティナビリティ〉〈デジタルトランスフォーメイション〉が出てきて面食らったという。しかし「これだったらどんな字だったかな、と迷うことはない。意味はよく分からなくても、書くぶんには楽である」と思い直した。

「そのうち漢字まじりの文章は、西欧のラテン語のような存在になるのかもしれない。『鬼滅の刃』などというタイトルは、すでに漢字を雅語として、その効果を狙った用法といっていいのではあるまいか」

   五木さんは、2010年刊の『親鸞』が書店に平積みされた頃の笑い話で締める。

「通りかかった若いカップルの女性が、『あれ、なんて読むの?』ときいた。つれの青年がさりげなく、『オヤドリだろう』と言ったことなど思い出した」

子どもでも「憂鬱」

   文字が「書く」ものから、もっぱら「打つ」ものに変わって久しい。子どものLINEにも「憂鬱」や「薔薇」が何のてらいもなく登場し、漢字を脳内で記憶している必要性は薄れるばかりだ。だから五木さんのように、手書きこそが快楽であり、漢字が浮かばないと文章が進まない、というような人はますます少数派だろう。

   ただ、パソコン執筆でも漢字と仮名の組み合わせがしっくりこないことはある。私の場合、なるべく難しい字は使わないのが原則で、「つまずく」も「すする」も仮名である。

   そのくせ、こうして他人様の書いたものを味わっていると、しばしば「なぜ平仮名にしたのだろう」という字句が目にとまる。たとえば「時」を「とき」と書く。気まぐれではない。皆さんプロだし、一流出版社の校閲のチェックも入るだろうから、同じ作中では「とき」で統一されていることが多く、余計になぜなんだと疑問がわく。

   五木さんの上記作でも、「ちがい」「ちがう」が平仮名で表記されている。もちろん「違」の字を忘れたとは思えないから、それが筆者のスタイルなのかも知れない。

   新聞にコラムを連載していた頃の体感だが、全体の字数に占める漢字の比率が3割を超すと全体が黒ずんでくる。4割近くだと、まるで学術論文のように真っ黒けだ。仕上がりが黒いなと思った時は、読みやすいように一部を仮名表記に改めたものだ。

   ちなみに、そんな職人仕事を「美白」と称していた。

冨永 格

冨永格(とみなが・ただし)
コラムニスト。1956年、静岡生まれ。朝日新聞で経済部デスク、ブリュッセル支局長、パリ支局長などを歴任、2007年から6年間「天声人語」を担当した。欧州駐在の特別編集委員を経て退職。朝日カルチャーセンター「文章教室」の監修講師を務める。趣味は料理と街歩き、スポーツカーの運転。6速MTのやんちゃロータス乗り。