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梅毒の感染者数が「最多」 理由分からず、東京は昨年の6割増

   梅毒の感染者数が増えている。共同通信によると、国立感染症研究所は2021年12月14日、今年の感染者報告数が7134人になったと発表した。12月5日までの人数で、現在の集計が始まって以来、過去最多。全国的に増加しており、特に東京や大阪、その周辺地域からの報告が多かった。

  • 2011年から再び増加(写真はイメージ)
    2011年から再び増加(写真はイメージ)
  • 2011年から再び増加(写真はイメージ)

2010年以降増え続ける

   報告数は2010年以降、徐々に増え、これまでの最多は18年の7007人だった。19年、20年はやや減少したが今年は再び増えた。東京が2226人と最も多く、大阪761人、愛知379人。

   同様のニュースはすでに10日、日刊ゲンダイが報じている。驚くべきは東京の増加率。昨年の45週時点では1312人だったのが、今年は45週までに2085人と昨年の1.6倍にまで増加している。

   同紙によると、日本の梅毒患者数は戦後すぐの1948年には年間22万人が報告されたが、抗菌薬「ペニシリン」の出現で激減し、67年の1.2万人をピークに97年には約500人まで減った。ところが、2011年から再び増加しているそうだ。

   今年は、新型コロナウイルスで何度も緊急事態宣言が出され、行動規制が一段と強化された。外国人の来日も難しかった。人流が減り、インフルエンザなど他の感染症は減る傾向。にもかかわらず、なぜ梅毒が増えているのか、理由は分からないのだという。

秀吉の朝鮮出兵で広まる

   梅毒は大航海時代になって、新大陸に渡った人が持ち帰ったといわれている。コロンブスの一行が帰国した後、欧州一帯に広がった。

   『感染症とたたかった科学者たち』(岩崎書店)によると、英国王のヘンリー8世も梅毒だった。ルターやカルバンの宗教改革は、英国で「ピューリタン」という性道徳に厳しい宗派を生んだ。その背景には性道徳の乱れによる梅毒のまん延があったという。


   梅毒はさらにヴァスコ・ダ・ガマの一行が喜望峰経由でインドに伝え、やがて日本に到達した。

   NHKの番組「DJ日本史」は20年11月1日、「豊臣家滅亡の原因は感染症!?」というテーマで梅毒を取り上げている。それによると、日本では16世紀の終わり、豊臣秀吉による朝鮮出兵がきっかけとなって感染拡大が起きたと言われているそうだ。

   加藤清正、浅野幸長、前田利長などは梅毒で亡くなったという。秀吉と近かったり、豊臣と徳川家康の間を取り持つこともできたりした武将たちだ。こうした状況を見て、家康は豊臣家を攻め滅ぼす方向へ舵を切っていったのだという。

   家康自身は自分で薬剤を調合するなど、病に関心が高く、梅毒をかなり用心していた。家臣に対しては、感染源とされていた遊女との接触を禁じていたようだ。

   江戸時代になると、梅毒は庶民レベルに広がった。『病が語る日本史』 (講談社学術文庫)によると、江戸時代の医者、杉田玄白は『解体新書』で有名だが、実際に診ていた患者のうち、7~8割は梅毒だった。玄白は生涯梅毒の研究に打ち込んだが、ついに治療法を見つけることができなかった。

   梅毒の再流行は、日本人と梅毒との400年以上も続く闘いが、まだ終わらないことを教える。予防策(コンドーム)やペニシリン系の治療薬があるにもかかわらず・・・感染症のしぶとさを改めて見せつけている。