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大島渚は何に怒っていたのか?「いまがダメなことを確かめ、不条理と闘おう」

   この1月(2013年)に亡くなった映画監督の大島渚の生涯は怒りと闘いだった。死後に100冊を越える創作ノートが見つかった。新聞・雑誌の切り抜きなどをヒントに、思索を繰り広げた大島の姿がうかがえる。シナリオ案もあった。貫いているのは、社会の不条理に対する怒りである。

「戦メリ」で知った「10代少女たちの柔らかな感性」に感激

   3月に池袋で開かれた追悼上映は盛況だった。初期の代表作「青春残酷物語」(1969年)は社会に反抗しながら破滅する若者を描いた。「少年」(69年)は実際にあった当たり屋の少年を題材に、戦傷を負った父親を助けてけんめいに生きることで犯罪にはまる不条理がテーマだった。

   露骨な性描写で日本ではそのまま公開できなかった「愛のコリーダ」は、シナリオ本(76年)がわいせつ罪に問われて権力と闘った。公判で「外国では認められている表現が、なぜ日本ではわいせつなのか」「表現は社会通念の変化に合わせて変わるものだ」と主張し、5年をかけて1、2審で勝訴した。

   大島の原点は少年時代にあった。6歳で父を亡くし、母の故郷の京都へ移った。そこで、生まれた時から差別に苦しむ人々を見た。12歳で終戦を迎えたときのことを、後にこう書いている。「大人への怒り。『今に神風が吹いて必ず勝つ』と断言した同じ口で、軍部の愚かさを罵る。吐き気がした」(「失って、得る」)

   大学を出て映画会社に入り、その怒りを作品にしていく。前出の作品群がそれである。「愛の亡霊」(78年)ではカンヌ国際映画祭で監督賞を得た。しかし、やがて高度成長を経て豊かになった日本の社会は、大島の怒りを離れていく。当時、助監督を務めた崔洋一氏は「ある日気づいたら、世の中がついてきてない。政治の季節は終わった」と語る。当時のメモに「困迷。メモのみ。くさる」「躁鬱病」などという書き込みがある。テレビに出てタレント生活も送った。

   やがて大島は賭けに出た。「戦場のメリークリスマス」(83年)だ。デビッド・ボウイ、坂本龍一、ビートたけしという異色のキャスティングで、いわば大衆路線を踏み出す。思わぬ反応があった。10代の少女たちが戦場がもたらす不条理を感じ取って手紙に書いてきたのだ。妻の小山明子さんがそれらを見せながら、「うれしかったんでしょう」という。大島も「彼女たちの柔らかな感性に感動した」(前掲書)と書いている。中学生から最後まで文通を続けた人もいた。

坂本龍一の弔辞「厳しく叱る人間がいなくなり、日本が少しつまらない国になった」

   大島の最後の闘いは病魔だった。脳梗塞で倒れ、3年のリハビリののちに撮った「御法度」(99年)で訴えたのは、バブル崩壊で活力を失った人々への危機感だった。「表現したかったのは、男たちの殺気なんだ」(前掲書)。リハビリ中のノートには、乱れた字で「夢」が繰り返し書かれていた。

   大島を知るノンフィクション作家の石井光太氏は「怒りが温かかった」という。「つぶされるような小さな物語を大切にして、それが正しいんだといろんな形でいってくる。そういう怒りだった」

   17歳から文通していたという映画監督の樋口尚文氏は、大学に入ったときにもらった言葉があった。「人がどこかへ行くのは、安住のためではなくて、そこがダメであることを確かめ、闘うためだ」。大島の怒りの本質は「右でも左でもない、細やかな思いがあった」という。坂本龍一氏も弔辞でいっていた。「あなたのように厳しく叱る人間がいなくなり、日本が少しつまらない国になったかも」

   こういう物わかりの悪い人間がときに必要になる。世の中が一斉にひとつの方向へ動きそうな、ちょうど今のようなときだ。

ヤンヤン

NHKクローズアップ現代(2013年4月25日放送「君は『怒るオトナ』を知っているか~映画監督・大島渚~」)