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大震災遺構やっぱり残そう!3・11から4年・・・変わってきた被災者の意識

「あのとき何が起ったのかをどう伝えて行くか」

   カギのひとつが震災の遺構だが、東日本大震災直後は「残すべきだ」「見たくもない」と意見は割れていたが、4年経って変わったと毎日新聞が伝えている。井上貴博アナがこの話題を追った。

宮古「たろう観光ホテル」、大槌町「遊覧船はまゆう」、陸前高田「白砂青松」

   岩手県宮古市田老地区に建つ「たろう観光ホテル」は6階建てで、上部は残っているが1、2階は鉄骨むき出しだ。復興交付金の支援を受け震災遺構の第1号になった。防潮堤の上に作られた展望台から被災地区が見渡せる。「防災ツアー」には7万人以上が参加した。

   同じ岩手の大槌町の役場は全部は無理でも一部を保存できないかと議論しているが、具体的なアイデアはまだ固まらない。宮城県女川町は20メートルの津波で鉄筋コンクリートの建物3棟が根こそぎ横倒しになった。3棟全部という声もあったが、交番だけ保存という線になりそうだ。

   「奇跡の一本松」の陸前高田は松の周囲を復興祈年公園にする。一本松は枯れたため復元・再生され、他にユースホステル、中学校なども保存される。ただ、一帯の家屋は取り払われ、「どこへ花を手向けたらいいか」

   復元計画もある。大槌町で民宿の屋上に乗っかって止まった遊覧船「はまゆり」は撤去されたが、住民はこれの復元を目指して保存会を結成し、大槌町に要求している。計画では合成樹脂で船を復元し、民宿も補強するというが、費用は億単位になると見られ容易ではない。

   気仙沼ではるか内陸まで運ばれた漁船「第18共徳丸」は津波の威力を感じさせるものだったが、住民の7割が「保存の必要なし」として撤去、解体された。そのあとになって国は「震災遺構に補助金」を打ち出したが、あとのまつりだった。

保存まで20年間議論した広島原爆ドーム

   キャスターの齋藤孝「ひとつのモデルは『原爆ドーム』ですね。原爆資料館と学習コースにもなっている。防災教育はこれから日本中で必要なので、津波を実感できるのはいいんじゃないでしょうか」

   司会の夏目三久「震災後にうかがった時、信じられない景色が広がっていて、自然の脅威を感じました。同時に、教訓に残せるものならと思いましたね」

   齋藤「大川小学校(石巻市)は思い出したくない悲劇だと思うが、教訓でもあるわけです。次の世代に感じてほしい」

   南三陸町の鉄骨だけになった防災庁舎は、原爆ドームにも劣らない発信力がある。宮城県は保存に国の財政支援をとりつけたが、2031年まで、つまり20年間は県有にしようとなった。

   井上「原爆ドームも保存が決るのに20年かかりました。それにならって、20年経ったらあらためて話し合おうということになっています」

   歳月で見方は変わる。大川小ではいま若い卒業生も議論に加わって、流れは保存へ向かっているという。