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がんで53歳の人生を閉じた金メダリスト・古賀稔彦 「平成の三四郎」が残した2つの伝説

   情報キャスターの森圭介アナが「1992年のバルセロナ五輪柔道金メダリスト、古賀稔彦さんが24日、がんで亡くなりました。53歳でした」と伝えた。関係者によると、去年から1泊2日の検査入院をすることはあっても長期入院はせず、自宅療養していたという。

   古賀さんと共に稽古した仲で、亡くなる3週間前に会話をしたというソウル五輪柔道女子61キロ級銅メダリストの北田典子は「『オレ、必ず元気になるけん。必ず会おう』って言っていた。それが私が聞いた最後の言葉になりました」と話した。

   母親の愛子さんは「涙が出ちゃうね。お母さんに心配かけないでということだった。親を喜ばせたいと、バルセロナで金を撮ったときは涙が出るほど嬉しかった」と語った。

   「平成の三四郎」との異名をとった古賀さんには2つの「伝説」がある。

   1つは、怪我をおしての金メダル獲得だ。ソウル五輪女子柔道52キロ級の山口香は「ソウル五輪の時に3回戦で負けた記憶を強く持っていた」と話す。「それまで古賀さんの周囲には多くの記者がいたが、負けたとたんに誰もいなくなった。両親は応援団に頭を下げていた。次のオリンピックではその両親に笑って見てもらえるよう金を取ると言っていた」と証言する。ところが、五輪直前の吉田秀彦との乱取りで左ひざを負傷。稽古も減量もできず苦労する中の出場だったが、北田典子は「怪我をしてすべてが揃った。これで緊張感が研ぎ澄まされ、一つの不安もなかった」と言う。北田の祖父で古賀の師匠でもあった横地治男さんはかつて「人間力で戦いなさい」という言葉を贈っていたという。

   痛み止めを打ちながら出場した五輪で古賀さんは準決勝で得意技の背負い投げで一本勝ち、決勝は判定勝ちで金メダル。怪我をさせてしまった吉田は「古賀先輩の金メダルは私が金メダルを取った時以上の喜び。今も私の支えであり、一生の宝」と話した。

無差別級に出場、80キロ重い相手に判定勝ち

   伝説の2つ目は、1990年の全日本選手権で無差別級に出場し、決勝まで勝ち上がったこと。全日本柔道男子の監督・井上康生は「71キロ級でありながら、無差別級に出場し決勝まで勝ち上がった雄姿は、今もなお脳裏に焼き付いている」と話した。この大会での古賀さんの相手は2回戦が135キロ、3回戦が120キロ、準々決勝が155キロ、準決勝が108キロ。最大で80キロ重い相手を判定勝ちで破って決勝に進んだが、決勝は小川直也に一本負けした。この時古賀さんは「講道館の天井を初めて見た」という名言を残している。

   訃報を受けたバルセロナ五輪48キロ級の谷亮子は「古賀先輩との思い出は数えきれないほどあるが私が中学生のころからバルセロナ五輪などの大会に一緒に出場しいつも『亮子、亮子』といって可愛がってくださった姿が忘れられない」とコメント。漫画「YAWARA!」の作者・浦沢直樹は公式ツイッターで「古賀稔彦の柔道がなければYAWARA!はあり得なかった」とコメントしている。

   MCの加藤浩次は「53歳の死はあまりにも若すぎる。怪我をして出場したバルセロナでアイシングして足を引きずりながら戦い金メダル。とんでもないことを成し遂げた、と世界も思ったと思う」とコメント。

   日本テレビ報道局社会部解説委員の下川美奈は「日本の柔道界には素晴らしい選手がたくさんいるが、思い出すのは古賀。美しい一本背負いなど、日本人が好きな柔道のスタイルを実践していた」と話した。