2019年 6月 17日 (月)

加藤千洋の「天安門クロニクル」(18)
再考「流血の夜」 (下) 広場で何を見たか

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   6月3日夜、戒厳部隊についに出動命令が下った。作戦行動の目標は「反革命暴乱平定」と「天安門広場制圧」だった。この時点で民主化要求運動は「動乱」から「反革命暴乱」という一段と厳しい規定に変わった。中国で「反革命」と認定されることは、きわめて重い意味がある。

  • Gカメラマンの証言では、ふだんは全人代(国会)会議や指導者の会見などに使われる「人民大会堂」から、突然、完全武装の兵士が飛び出してきたという。戒厳部隊がひそかに要員を送り込んでいる、との情報が事前に流れていた
    Gカメラマンの証言では、ふだんは全人代(国会)会議や指導者の会見などに使われる「人民大会堂」から、突然、完全武装の兵士が飛び出してきたという。戒厳部隊がひそかに要員を送り込んでいる、との情報が事前に流れていた
  • 『AERA』1989年6月20日号掲載のGカメラマンの写真。銃を構える兵士のシルエットと人民大会堂の「国章」。撮影時間は「4日午前5時」となっている
    『AERA』1989年6月20日号掲載のGカメラマンの写真。銃を構える兵士のシルエットと人民大会堂の「国章」。撮影時間は「4日午前5時」となっている

一部始終を目撃した朝日新聞カメラマンの証言

   私は4日午前1時以降の広場の状況を見ていない。午前零時すぎ、天安門前で装甲車(003号)が群衆の手で炎上した。ついに戒厳軍が発砲し、群衆と衝突した。事態急変を東京の『AERA』編集部に一報しなければと、いったん広場から離脱したのだ。

   電話連絡を終えて午前2時すぎごろに戻った。すでに広場周辺で銃の連射音が響き、北京飯店西の長安街でも男が被弾した。これ以上の接近は断念した。 30年後の反省には何の意味もないが、記者として一番重要な時に、いるべき場所にいなかったという悔いはずっと消えない。

   では戒厳部隊が広場に到達した午前1時前後から学生・市民が広場外に退却するまでの4時間余、広場で起きた事を目撃した外国人ジャーナリストはどれくらいいたのか。

   こんな証言がある――。

「軍隊が天安門広場を整頓するために最後の進撃をした夜に、北京には1000人以上の外国人ジャーナリストがいた」
「後で分かったことだが、午前3時ごろの広場にはおよそ10人の外国人ジャーナリストがいた」

   広場に最後まで留まった一人で、当時、「ヒューマン・ライト・ウオッチ」(本部ニューヨーク)監視委員だったロビン・マンローがこうに書いている(『天安門事件の真相』(下巻)所収の「北京における虐殺の真相――誰が、なぜ死んだか?」)

   彼が確認したのはスペインのテレビ・エスパニョーラ3人、米CBS2人、AP通信、エイシャン・ウォールストリート・ジャーナル、香港と米国のフリーランサー、そして日本の報道写真家、今枝弘一の名もあげている。

   このほかに実は朝日新聞の記者とカメラマンも広場にいた。マンローにカウントされなかったのは、彼らが汚れたジャンパーなどを着て民衆の中に紛れ込んでいて、外国メディアと判別されなかったからか。あるいは2人の記事や写真に名前が明記されなかったためかもしれない。朝日新聞5日付朝刊3面「時々刻々」欄は一部始終を目撃した記者が書いた冷静な筆致のルポだ。またDカメラマンの記録写真は朝日新聞紙面だけでなく『AREA』(とくに緊急増刊号『中国は何処へ』)でも使わせてもらった。

   今回、Gカメラマンに会って話を聞いた。以下は概要である。

3日PM11:40

   輪タクで東長安街を通り、天安門広場の東北角に到着。そこから歩きだした。途中まで『フォーカス』の仕事をしていたフリーの永島雪夫カメラマンと一緒だった(永島カメラマンは取材中に長安街で足に被弾。日本の報道陣で確認された唯一の負傷者)

4日AM0時~

   天安門に向かうと装甲車(003号)に群衆が石やレンガ片、火炎瓶を投げつけていた。いつ爆発するか恐怖感があったが、前に出てシャッターを切った。ハッチから火だるまになった兵士が飛び出す。群衆に殺されると思った。その時学生数人が止めに入った。この時はフラッシュをたいたが、標的になるので以後はなるべく使わないようにし、ASA1600の高感度カラーフィルムを使った。

AM2時~

   広場を北から南へ歩いて移動、テントに人影は見なかった。人民英雄記念碑の3段になった台座にぎっしりと数百人が座り込んでいた。唇をかみしめ、ほとんど無言。鉢巻をした学生もおり、悲壮感が漂っていた。

   広場西方の人民大会堂の方から鋭い金属音と閃光が見えた。銃撃だった。射角がだんだん低くなり、近くの石畳に弾が突き刺さる音も聞こえ、一瞬パニックになり、自分も体がしばらく硬直した。

AM3時~

   発射音が止み、再び広場は不気味な静けさに包まれた。人民大会堂北側で大きな炎が見えた。見に行くと戒厳部隊が到着し、数十台の戦車、装甲車、トラックが長安街を埋めていた。銃を構えた兵士が道路を閉鎖する。うっかりフラッシュをたいた。兵士が銃口をこちらに向け、安全装置がカチリと外れる音を聞いて、一目散に逃げた。

AM4時~

   突然広場の照明灯が消えた。新月の夜で暗闇の恐怖感はすごかった。リーダーたちの「落ち着こう」というような呼びかけが拡声器から響いた。「インタナショナル」の歌声も何度も聞いた。それから10分ほど後に、残っていた市民らが「ウォー」という声を上げながら南東方向へ走り出したので、後ろにくっついていったん外に出た。そのまま離脱しようかとも思った。が、自分の目で見ておかねばと広場に戻った。

AM4時半~

   照明灯が再点灯した。西側の人民大会堂前に大勢の兵士が無言で出てきた。10人ぐらいがひと組になって半円形で匍匐前進する。徐々にその輪が大きくなり、その後ろから装甲車が迫ってくる。兵士と我々との距離は百メートルなかったか。北から戦車と装甲車が一斉に入ってきてテントをなぎ倒した。その少し前、ヘルメットの兵士が銃を構える姿を人民大会堂の「国章」を入れて撮影した。

AM5時~6時

   広場を撤退した時、夜は明けていた。外から振り返ると広場の中央に戦車が集結し、まるでブルドーザーがゴミをさらうように広場を片づけていた。輪タクを拾って支局へ戻る途中で軍用車やバスが燃えるのを見た。検問が2度あったが中国語がわからないふりをし、カメラを汚れたジャンパーの下に隠して没収を免れた。

天安門広場で虐殺はなかった

   当局発表でも「319人」にのぼった当夜の犠牲者の多くは、「西線」と呼ばれた北京市西部の復興門、木犀地、六部口などの主要交差点付近で起きた衝突で発生した。広場近くの長安街でも死者は出たが、少なくとも広場内で「大虐殺」「流血」という事態は無かったというのが、現在では有力な見方になっている。

   これを最も早い段階で提起したのは矢吹晋・横浜市大教授(当時)の「天安門広場での虐殺はなかった」(読売新聞1989年12月4日付夕刊・文化欄)だろう。NHKは1993年6月の「クローズアップ現代」で、前記スペインの国営テレビ局「テレビ・エスペニョーラ」の記録映像を使い、同様の視点を打ち出している。

   Gカメラマンに改めて尋ねた。天安門広場で人が銃撃で倒されたとか、装甲車に押しつぶされたテントにまだ人がいたのを見たかと。

   「百%の確信は無いが」と断りつつ、「広場の大虐殺」とか「流血の海になった」というような事態は「無かったと思う」と語った。(次回は「長安街の蟻」上)

加藤千洋さん

加藤千洋(かとう・ちひろ)
1947(昭和22)年東京生まれ。平安女学院大学客員教授。東京外国語大学卒。1972年朝日新聞社に入社。社会部、AERA編集部記者、論説委員、外報部長などを経て編集委員。この間、北京、バンコク、ワシントンなどに駐在。一連の中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。2004年4月から4年半、「報道ステーション」(テレビ朝日系)初代コメンテーターを担当。2010年4月から、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。2018年4月から現職。
主な著訳書に『北京&東京 報道をコラムで』(朝日新聞社)、『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波現代文庫)、『鄧小平 政治的伝記』(岩波現代文庫)など。
日中文化交流協会常任委員、日本ペンクラブ会員、日本記者クラブ会員。

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