読むべき本、見逃していない?

かつて「平壌」にあった「妓芸学校」とは?

  • 書名 芸者と遊廓
  • 監修・編集・著者名宮島新一 著
  • 出版社名青史出版
  • 出版年月日2019年3月 8日
  • 定価本体8000円+税
  • 判型・ページ数A5判・460ページ
  • ISBN9784921145668

 本書の『芸者と遊廓』(青史出版)というタイトルを見て、身を乗り出す数寄者がいるかもしれない。芸者はともかく、遊廓の方は1957(昭和32)年施行の売春防止法で姿を消した。ひょっとしてその後の裏面史でも出てくるのではないかと。

 残念ながら本書はそうした「期待」には応えられない。今はなき遊廓のノスタルジア本ではないからだ。

分厚い研究書

 お値段も8000円+税と高い。文字も小さく、しかも分厚い。500ページ近くもある。テーマは「芸者」「遊廓」と世俗的だが、いわゆる研究書なのだ。

 目次をながめると、「1、上方の芸舞子」「2、江戸の踊子」「3、江戸の芸者」「4、地方の芸者、芸子、舞子」「5、水揚げ」「6、明治期の芸妓」「7、芸娼妓等解放令がもたらした影響」「8、女紅場」「まとめ 芸妓と娼妓を分けるもの」と続く。

 「上方」「江戸」という区分けからもわかるように、江戸時代にさかのぼり芸者の歴史をたどっている。昭和の売春防止法の記述はほとんど見当たらず、明治5年の「芸娼妓等解放令」に関する部分が特に多く書き込まれている。

 著者の宮島さんは1946年生まれ。京都大学文学部、同大学院を卒業。文化庁の主任文化財調査官、九州国立博物館副館長などを経て2011年に山形大学大学院教授を定年退官している。博物館、美術館業界ではよく知られた人だ。

 著書に『肖像画』(吉川弘文館、1994年)、『宮廷画壇史の研究』(至文堂、1996年)、『長谷川等伯』(ミネルヴァ書房、2003年)、『二万年の日本絵画史』(青史出版、2011年)などがある。本来は日本美術史の研究者なのだが、絵画に登場する芸者などの姿に関心を持ち、退官後にじっくりまとめたという感じではないかと想像した。

西洋社会には類のない存在

 目次からもわかるように、多数の文献史料・浮世絵などをベースにしている。イントロは「フジヤマ・ゲイシャ」から始まる。外国人はなぜ「芸者」に驚き、関心を持ったか。それは「西洋社会には類のない存在」だったからだという。

 そういえば、本欄で以前に紹介した『出島遊女と阿蘭陀通詞--日蘭交流の陰の立役者』(勉誠出版)によると、江戸時代の出島には日本人の「遊女」がたくさん出入りしていたという。内部の様子を描いた「出島阿蘭陀屋舗景」には、多数の遊女が描かれている。たしか幕末の横浜の外国人居留地界隈を描いた絵画にも、外国人に酌をする芸者らしき女性が登場していたと記憶する。

 明治期に来日したイギリス人の画家は「芸者」について、「日本の教養ある女性である。芸人であり、接待係である。高度な教育を受けており、芸術の鑑賞にも優れている。話術にも長けている」と称賛の言葉を残しているそうだ。一方で「男性の歓心を求め、性を提供する存在」とシビアに記録した風刺画家もいる。

 宮島さんは芸者と芸妓、地域による違い、芸者と置屋の複雑な関係などにも触れつつ、「芸者は日本人男性の身勝手な欲望の所産」であり、「論ずる人によってまったく異なる芸者像が立ち上がる構造を持っている」と書いている。

ウラジオストックにも多数の娼妓

 本書で興味深かったのは「8、女紅場」だ。「じょこうば」と読む。明治になり、日本の「芸者」の実態を知った外国人から、「人身売買」ではないかと批判され、明治政府は大慌てで芸娼妓等解放令を出す。そして芸妓、娼妓の正業への転身を促進すべく、裁縫や読み書きを教える施設として「女紅場」が設けられたのだという。全国各地の設置状況が細かく記されている。

 同法はザル法だったので、売春業は存続、紀田順一郎の『東京の下層社会』(ちくま学芸文庫)によると、大正末期から昭和初期、全国で売春業に関わる女性は約15万人。15歳から35歳までの女性の76人に1人が関係していたという。本書によると、昭和5年の国勢調査では芸妓、娼妓、酌婦を合わせて約24万人、当時の16歳から30歳までの女性人口の約50人に1人というさらに多い数字が出ている。

 本書には「外地の芸妓と女紅場」という項目もある。本書で最も目を引く部分だ。

 まず台湾。明治28年に日本に割譲され、31年末にはすでに全土で597人の芸妓がいた。中国本土の記録も掲載されている。上海、大連、天津、旅順、長春などの詳細な人数が出てくる。さらに「南洋」「シベリヤ・樺太」などの記述が続く。大正4年にはウラジオストックに323人、大正5年には香港に156人の娼妓。明治後期のシンガポールには約900人の「醜業婦」がいたが、その多くは「誘拐されたる者」だったという。

 「朝鮮」では併合直前の明治42年段階で芸妓1055人、娼妓641人、酌婦2229人が早くも「進出」していた。実情を知らずに連れてこられた女性と楼主との間でしばしば紛議も発生していたという。

 「平壌の妓生学校」についてもページが割かれている。朝鮮人の少女に「芸」を教え込む学校だ。朝鮮では「妓生」の伝統があったが、この学校では朝鮮歌舞だけでなく、日本の歌舞、日本語も教えたそうだ。その実態は諸説あるようだが、1939年ごろの平壌の観光協会の冊子には「毎年約100名の新妓が華やかな柳京の花の街にデビュー」と紹介されている。同じような学校は朝鮮のあちこちにあった。日韓併合の意外なところにまで及んでいた影響を知ることができる。

戦地で酒と女の日々

 そういえばインパール作戦で有名な牟田口司令官らは、戦闘が始まっても前線から300キロほど離れた避暑地に本部を置いてとどまっていた。そこには将校専用の料亭があり、芸者や仲居も日本から来ていた。多くの将校に専属の芸者がいて、戦況報告などが料亭で行われることもあった。前線からの命がけの報告を、女と酒を飲みながら聞いていたという。NHKスペシャル取材班による『戦慄の記録 インパール』(岩波書店)に出ていた。

 これに類した話は、戦前の戦争予算の詳細に迫った『軍事機密費』(岩波書店)でも報告されている。「陸軍の軍人はとても腐敗していました。毎日酒を飲み、料理屋はいつも日本軍の将校でいっぱいでした・・・上は将軍から下は少尉まで、女をめぐって争っていました。将軍と大尉が、一人の女を巡ってライバルという状態でした」。これは1932年から34年まで拓務省警務課長をつとめ、その間に三度満州を訪れた役人の証言だ。 

 芸者・芸妓の海外進出は大日本帝国の版図拡大とリンクしていることに気づく。

 本書の表紙は赤と黒の二色に区分けされている。スタンダールの『赤と黒』は軍人と聖職者のことだといわれるが、本書の「赤」と「黒」は何を象徴しているのだろうか。

 本欄では関連で『戦後日本の〈帝国〉経験』(青弓社)も紹介している。明治維新後に初めて旅券を持って海外に出かけた女性は、長崎の遊女だったと書いてあった。

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