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【IEEIだより】福島レポート「医学研究」への不信 「研究」という言葉がもたらす「誤解」

「これは調査であって研究ではありません」

   福島県が実施している県民健康調査についてのシンポジウムが行われた時に、演者の方に「この『研究』は......」と質問を投げたところ、強い口調でそう念を押されたことがあります。

   たしかに県民健康調査は県が行っている調査であり、研究と呼ぶことは不適切であったかもしれません。それでも、データの解析に多くの研究者が関係し、かつ多くの論文が世界へ発信されていることを考えれば、一種の「調査研究」と呼んではいけないものだろうか。私は根が適当にできているため、ついそう思ってしまいます。

   しかし担当の方は、この調査を「研究」と呼ぶことに大きな抵抗を覚えているようでした。そこには、「医学研究」という言葉が住民の方に与え得る「負」の印象への慎重な配慮があります。

  • 「『研究』ではなく『調査』です」。シンポジウムで、演者はそう言った(写真はイメージ)
    「『研究』ではなく『調査』です」。シンポジウムで、演者はそう言った(写真はイメージ)
  • 「『研究』ではなく『調査』です」。シンポジウムで、演者はそう言った(写真はイメージ)

研究によって身体的な影響を受ける人はいなかった

   研究者が住民の方の個人情報を使用する際には、ルールがあります。しかし、このルールに則ったからといって、研究者が世間の批判を受けないわけではありません。特に災害後の福島においては、疫学研究などの医学研究が、

「放射能を安全と言うために利用された」

と言われたり、逆に

「論文のせいで風評被害が大きくなった」

と、非難されることがしばしばあります。

   その批判の背景には、医学研究と名の付く物に対する住民の方々の不信がある、という印象を受けます。では、なぜ医学研究は人々の不信の原因となるのでしょうか。そこには、医学研究に対する誤解だけでなく、データ解析という行為に対する誤解も存在すると思います。

◆ 医学研究に対する誤解
(1)介入研究と観察研究の混同

   ひとことで医学研究と言っても、さまざまな種類があります。細胞や動物実験レベルの基礎的な研究、人や社会の現状を調査する観察研究、人に薬や医療機器などを試験的に適用する介入研究などです。その中で、患者に影響を与え得る治験などの「介入研究」と、患者のデータを集めるの「観察研究」はしばしば混同されます。

   福島の災害において、被災地で新薬や新技術を試すような、いわゆる「介入試験」は行われていません。そこで書かれた論文のほとんどは、日々の診療業務や健康調査から生まれた記録をまとめた「観察研究」なのです。

   つまり、その「研究」行為によって身体的な影響を受ける方はいなかった、ということです。そういう意味で、被災地でしばしば耳にした「患者をモルモット扱いしている」という言葉は当てはまらないのではないかと思います。

(2)論文とキャリアへの偏見

   また、もう一つの誤解は、論文を書いている医師は論文を書いてキャリアアップする目的で被災地に入ってきている、というものです。支援に入るのであれば、論文のような「ムダな」作業はせず、支援だけに集中してほしい。患者さんからみれば、そういう思いはある意味当然なのかもしれません。

   実際に災害後にたくさんの論文を発表した研究者は、福島県内に少なからずいらっしゃいます。しかし、じつは福島で生まれた論文の多くは、キャリアパスのうえで重視される「インパクトファクター」は決して高くありません

   これは、世界的に見ても災害論文は特殊な事態の記録にすぎず、科学的ではない、とみなされてしまいがちだからです。むしろ、基礎研究などで新しい発見をしたほうがインパクトファクターの高い論文を投稿できる確率は高くなります。

   つまり、キャリアのために論文を書くのであれば、被災地に入るよりも実験や治験を行って論文を書いたほうが早道であるとも言えるのです。

   このように研究者のキャリアパスとして、あまり魅力的でない被災地の論文ですが、その多くは、今後世界で起こり得る災害時にも役立つ、社会的貢献度のとても高い論文です。とくに福島で書かれた論文は、福島を偏見のない形で世界へ発信するための重要な史料にもなっているのです。

患者が「モルモット」や「データ」に見えてくる?

(3)患者「モルモット化」の誤解

   また、論文を書こうとする医者は患者を「データ」としか見ていないのではないか、という不信感もあるかもしれません。では、論文を書いているうちに診察室で目の前に居る患者さんが「モルモット」や「データ」に見えてくるのでしょうか。

   それは、たとえば農家の方が土の成分や果物の糖度を詳細に記録しているうちに、「美味しい果物を作りたい」という気持ちが揺らぐのか、という質問に似ていると思います。医学論文は、決して日常診療の足をひっぱるものではありません。目の前の患者さんを良くしたいという思いと、その情報をなるべく多くの人々に伝えたいという思いは一人の個人の中で何の矛盾もなく共存し得るのです。

   また、研究目的で被災地に来た人が、医療の質を落とすことがあるのでしょうか。たしかに海外の被災地などでは、名声や節税を目的に被災地に入り、質の悪い医療を提供したり、新薬や新しい術式を試したりした団体があった、という歴史もあります。

   しかし、東日本大震災の際に支援に入った医療従事者は、日本の医師免許を持ち、日本の法律に従う人々です。またその大半の方は地域の医療施設に所属して、その施設の質に準じた医療を提供していました。

   つまり、日本の被災地の医療は、一部の海外の被災地で見られるような「無法地帯」では決してなかったということです。

   被災地で論文を書くか否かと、医師の人間性や提供される医療の質とはまったく関係がない、ということは多くの方に知っていただきたいと思います。

(4)「倫理審査」への誤解

   (3)と関連することですが、医学研究を行う時には医療施設の「倫理審査委員会」で審査を受ける必要があります。これを聞くと、

「倫理審査が必要ということは、やはり倫理的に問題が生じ得るということだろう」

と、言われてしまうことがあります。

   しかし、観察研究が倫理審査を受けなくてはいけない理由は、主に個人情報の取り扱いについてであり、他の医学研究に見られる人権のような「倫理」とはまったく異なります。もちろん、「観察内容が差別的な視野に基づいていないか」という観点での審査も行われますが、この観点で問題となる研究はあまりありません。

医学研究には、さまざまな「誤解」がある(写真は、福島県富岡町周辺)
医学研究には、さまざまな「誤解」がある(写真は、福島県富岡町周辺)

データ解析とその結果に対する誤解

   こうした医学研究と論文に対する誤解に加え、論文において一番軋轢が生まれる原因は、

「データを集めている時点で結論はわからない」

という点ではないかと思います。

   つまり、データ提供に同意をいただいたからといって、同意された方の目的に適うような結果が得られるとは限らない、ということです。

   たとえば、ある方が福島は安全だ、ということを発信したいと思い、ホールボディーカウンターの結果を提供することに同意したとします。しかし、実際に測定してみたところ、その方の内部被ばく量が高かった、ということもあり得るのです。同意を取った科学者がこの結果を変えることはできません。

   科学論文の性質を考えればこれは当たり前のことです。統計のためのデータからは恣意性を可能な限り排除しなくてはいけない以上、データ提供者の恣意もまた排除されなくてはいけないからです。

   ただし、実際に自分の医療情報を用いた研究が自分の意図しない結論を引き出していたら、良い気持ちはしないでしょう。

   たとえば、私自身も相双地区のスタッフ数が震災直後に激減し、18か月経っても回復していない、という論文を書きました。その時には、この結果を公表してよいか、ということを対象の病院に確認しています。なぜなら、この論文が、

「スタッフが逃げたと非難する気か」
「相双地区の医療の質が落ちたかのような誤解をされるのでは」

と、非難される可能性も十分あったからです。

   公正に発表しようと思った結果、被災地の方々の意に副わない論文になってしまうかもしれない―― 福島で書かれた論文のいくつかが社会的に非難を受ける一因が、ここにあると思います。

   このような事例は、疫学調査にはしばしば起こりがちです。たとえば昔、三種混合ワクチンの接種が自閉症のリスクを上げる、という論文が書かれたことがありました。今ではこの研究デザインと結果の解釈が間違っていた、ということが証明されていますが、統計というものは偶然そのように見える結果を出してしまうことがあります。

   そして、それは必ずしも研究に参加した方が、もともと予測していた結論ではないこともよくあるのです。この例でも、

「あの時同意をしなければよかった」

と、後悔した方もいたかもしれません。

   前稿で、観察研究によって「身体的影響を受ける患者さんはいない」と書きました。しかし、上記の論文によるその後のワクチンの接種率低下とその社会的影響を考えれば、たとえ観察研究でも精神的・社会的影響は必ずしもゼロではないのです。

   これは、これまでの観察研究であまり患者さんに説明がなされてこなかった点かもしれません。

誤解の一因は考察の恣意性にある

   データの結果については、恣意性は可能な限り排除されます。しかし論文には「結果」だけではなく、結果に対する著者の「考察」が加わります。たとえば、ある値に統計学的有意差が出なかった時、「差がなかった」ことを考察するのか、「統計学的には差がないが平均値には差があった」ことを考察するのかによって、読者が受ける印象は異なります。そういう意味で、科学論文も新聞・雑誌と同じ「ジャーナル」であるという一面もあるのです。

   この考察の仕方によって、論文が受理されるかどうかが決まる部分もありますので、著者にとって考察は自分の能力を試すとても重要な部分です。インパクトの高い考察を行わなければならない一方で、それが公表された時に社会に及ぼし得る影響にも気を遣わなければなりません。

   多くの研究者は最大限の気を遣って論文を書きますが、それでもすべての方に配慮するのはとても難しいことです。福島の論文において「結果が歪められた」と非難される多くの場合には、データではなく、この考察部分が公正性を欠いているとみなされていることが多いように思います。

   しかし、繰り返しますが、論文の考察と結論は「科学」ではなく「ジャーナリズム」の要素を多分に含んでいます。考察部分だけを読んで研究の正当性や研究者の公正性を批判することと、その研究の科学性を批判することが混同されてはいけないと思います。

   ではなぜ、それでも論文を書くのか

   ここに記述してきた「誤解」は、災害時の情報を世界と共有することの価値がしっかりと認識されていないことにもあるのではないでしょうか。被災地の情報を共有することが大切である、という認識がなければ、論文を書く人のモチベーションが理解できず、「どうせ名声のためにやっているのだろう」と思われてしまうからです。

   では、災害時の記録はなぜ必要なのでしょう。いろいろな理由はありますが、私は一番大切なことは「未来への遺産」と「差別に対する武器」という2点だと思っています。

(1)未来への遺産

   被災地の知恵を共有することは、未来に起き得る事件から「想定外」の要素を少なくする、という役割があります。2011年において、東日本大震災、特に津波と原子力発電所事故は、想定外の連続でした。しかし、あとから振り返って見れば、想定外と思われた事象の多くは世界のどこかで既に起きていた災害と驚くほど似ていたことが、わかっています。

「この情報さえ持っていれば、徒に時間を浪費せずに済んだかもしれない」

   災害時に記録を残そうとした方々の多くは、そのような悔恨と、未来への使命感に駆られていたように感じます。それは、その昔津波の石碑を残し、文書を残した人々の気持ちと同じものなのではないかと思います。

   記録の手段が限られていた時代には、人々は石碑や日記といった手段で何とか先人の知恵を残そうとしてきました。現代の私たちは、その当時からは比べものにならないくらい多くの情報伝達手段を手にしています。その中でも未来まで残り、かつ世界中と共有できる確率の高い記録が「学術論文である」というだけの話ではないでしょうか。

災後の歴史を踏み出すために

(2)将来の差別の予防

   昨年(2018年)、一昨年(2017年)に明らかになった福島からの避難者に対するいじめと差別問題は、一定の収束はみています。しかし、根本的な解決はなされておらず、それがいつ何時再燃するかはわかりません。

   今年の3.11のテレビ報道が未だに「可哀そうな被災地」を売るような番組であったことから見ても、世間の人々が被災地を一段下に見ている、という印象は拭えません。

   たとえば、これから結婚を考える人、子どもを産む人の懸念を少なくするためにも、住民の方の被ばく量や空間線量に対するデータが蓄積し、被害者側が差別に対して反論する術を持っているということがとても重要になります。科学論文はその反論のための貴重な武器となるでしょう。

   災害から8年が経ち、少し人心地がついた昨今、改めて当時の「医学論文」に対する非難が浮上している場面を見かけます。

   住民の方にとって、自分の記録が「データ」と呼ばれることに対する不快感もあったでしょう。災害の混乱のなか、十分な説明もなく取られたデータもたしかに存在し、そのことは科学者も反省すべきです。なによりも、貴重な情報を提供された住民の方が、そのことを後悔するような事態を早急に払拭すべきだと考えます。

   それでも、個々人の記録が集められることで形を変え、社会という集団の「記憶」や「知恵」として被災地に残り続ける。それはとても大切なことではないでしょうか。ひとりひとりの情報がより良い未来を編んでいく。日々の暮らしで作り出される情報の価値を、住民の方々もまた誇りに思えればよいな、と思います。(越智小枝)

越智 小枝(おち・さえ)
1999年、東京医科歯科大学医学部卒。東京医科歯科大学膠原病・リウマチ内科。東京都立墨東病院での臨床経験を通じて公衆衛生に興味を持ち、2011年10月よりインペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院に進学。留学決定直後に東京で東日本大震災を経験したことで災害公衆衛生に興味を持ち、相馬市の仮設健診などの活動を手伝いつつ世界保健機関(WHO)や英国のPublic Health Englandで研修を積んだ。2013年11月より相馬中央病院勤務。2017年4月より相馬中央病院非常勤医を勤めつつ東京慈恵会医科大学に勤務。
国際環境経済研究所(IEEI)http://ieei.or.jp/
2011年設立。人類共通の課題である環境と経済の両立に同じ思いを持つ幅広い分野の人たちが集まり、インターネットやイベント、地域での学校教育活動などを通じて情報を発信することや、国内外の政策などへの意見集約や提言を行うほか、自治体への協力、ひいては途上国など海外への技術移転などにも寄与する。
地球温暖化対策への羅針盤となり、人と自然の調和が取れた環境社会づくりに貢献することを目指す。理事長は、小谷勝彦氏。