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大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一は「明治の鉄道王」だった!

   2021年2月14日から放送が始まるNHK大河ドラマ「青天を衝け」。日本の「資本主義の父」と言われる渋沢栄一の生涯を描く。銀行をはじめ多くの企業の設立に深くかかわった渋沢は、45もの各地の鉄道会社の設立に関与した「明治の鉄道王」でもあった。

   社会インフラの重要な基盤の一つである鉄道に、渋沢はどんな可能性を見たのか――。本書「渋沢栄一と鉄道」は、渋沢栄一の事績から日本の鉄道黎明期を読み解いた本である。

「渋沢栄一と鉄道」(小川裕夫著)天夢人発行、山と渓谷社発売
  • 渋沢栄一翁は「鉄ちゃん」だった!?
    渋沢栄一翁は「鉄ちゃん」だった!?
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パリ万博後にヨーロッパで「乗り鉄」

   著者の小川裕夫さんは、フリーのライター、カメラマン。著書に「私鉄特急の謎」(イースト新書Q)、「歴史から消された禁断の鉄道史」(彩図社文庫)など鉄道関連書もあるが、鉄道専門ライターではないという。2017年に「東京王」(ぶんか社)という本を出し、そこで渋沢栄一に多くのページを割いた。生涯で500社を超える企業と約600の団体の設立にかかわったとされる渋沢を「鉄道」という切り口で見ると、公益を重視する姿勢がわかるという。

   渋沢の初の鉄道体験は、1867(慶応3)年にエジプトのスエズからアレクサンドリアまでの乗車だ。15代将軍の徳川慶喜は弟の徳川昭武をフランス・パリで開催される万国博覧会に派遣。渋沢も会計担当と世話係として同行した。

   万博の閉幕後、昭武一行はヨーロッパ各国を汽車で巡歴した。ベルギーでは鉄工所を見学した翌日に国王に謁見した。「日本はベルギーから鉄を買ってください」と打診する国王に驚いたという。国王がトップセールスする姿に感銘を受け、このエピソードを講演でたびたび話した。

   会計係だった渋沢はフランス滞在中に公債を買い、かなりの差益を得た。経済というシステムについて考えるきっかけになった。

   帰国後、大隈重信にスカウトされ民部省で働くようになった渋沢は、改正掛として富岡製糸場の建設などを立案した。その後、官職を辞して民間に転じて、銀行業・製紙業で基盤をつくりつつ、鉄道業界へと進出を図る。

   1875(明治8)年、新橋-横浜間を走る官営鉄道の払い下げを目的に東京鉄道を立ち上げるが、売却は実現せず、会社は解散する。鉄道デビューは失敗に終わった。小川さんはその失敗を糧に各地で鉄道建設に奔走した、とみている。東京と東北を結ぶ目的でつくられた日本鉄道(現・JR東日本 東北本線など)など旧国鉄を経て、JR各社に引き継がれた路線のほか、京阪電気鉄道、目黒蒲田電気鉄道(現・東急目黒線~多摩川線)などの私鉄として現存するものもある。

   明治政府は財政難で、日本の鉄道建設は遅れていた。そこで民間資本による建設が企図された。旧大名家を中心とする華族たちによって1877(明治10)年に第十五国立銀行が設立され、日本最初の私鉄といわれる日本鉄道にも出資した。鉄道は当時のベンチャービジネスの側面もあったようだ。

   渋沢の事績から離れるが、本書では大口出資者たちは線路が敷かれる前から北関東や東北地方で農園・牧場の経営に乗り出して沿線開発に弾みをつけようとしていたことを詳しく紹介している。栃木県の那須野が原には栃木県令だった三島通庸、西郷従道、大山巌ら明治新政府の首脳たちが農場を開設した。また、岩手県の小岩井農場には、三菱財閥の総帥・岩崎弥之助ら3人が参画した。

鉄道の国有化に衝撃受ける

   東京駅丸の内側の駅前広場に銅像もある井上勝は「日本の鉄道の父」と言われる。鉄道は国家全体に影響を及ぼすものだから官営であるべきだ、という井上と鉄道は民営であるべきだ、という渋沢の考えは対立していた。だが、日本鉄道の建設にも井上は協力、二人はパートナーだった。

   鉄道建設が滞ると作業員や技術者は仕事がなくなる。計画・用地買収・建設工事という面倒な作業を官が請け負った。「本来は日本鉄道がやる作業を、井上は進んで引き受けたのだった」と書いている。

   鉄道の国有化論争に終止符が打たれたのは1906(明治39)年、政府の念願だった鉄道国有化法が公布された。日露戦争後の景気悪化で経営難に陥る鉄道会社もあり、渋沢は「鉄道は民営」という主張を軟化させた。

   幹線機能を担う17の私鉄が政府に買収された。現在の中央線の一部にあたる甲武鉄道、山陽本線にあたる山陽鉄道、鹿児島本線にあたる九州鉄道などのほか、渋沢が経営に関与した北海道炭礦鉄道、日本鉄道、参宮鉄道、西成鉄道なども国有化された。渋沢には大きな衝撃だったという。

最後の事業は田園都市づくり

かつての目蒲線沿線にはマンションが...(写真は、現・東急多摩川線)
かつての目蒲線沿線にはマンションが...(写真は、現・東急多摩川線)

   その後、渋沢は田園都市づくりを生涯最後の事業とした。そのため実業界から身を引いた。洗足田園都市、田園調布を手掛けたが、住宅地は人気にならなかった。鉄道がなかったのだ。そこで関西で成功した箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)の小林一三に支援を求めた。小林は鉄道院から武蔵電気鉄道に転じていた五島慶太を推挙した。こうして田園調布は完成した。

   戦後、東急会長になった五島は多摩田園都市プロジェクトを進め、田園都市線はステイタスとして人気を集めている。その源流をたどれば渋沢栄一に行きつく。その思想は他社にも受け継がれ、小田急の林間都市、東武東上線のときわ台などに影響を見ることができる。

   さらに渋沢らによって、来日した外国人をもてなすためにつくられた「喜賓会」は、1912(明治45)年、ジャパン・ツーリスト・ビューロー(現・JTB)に引き継がれた。1963(昭和38)に組織を改編。現在も公益財団法人として日本交通公社は存在するが、営利部門は株式会社として独立している。

   本書では鉄道そのものだけでなく、駅舎建築に使われたレンガや汽車の窓に使われるガラスなど、鉄道インフラを支える多くの事業にも渋沢は関与していることを紹介している。

   大河ドラマでは、鉄道とのかかわりがどこまで描かれるかわからないが、本書もガイド本として役に立つだろう。

「渋沢栄一と鉄道」
小川裕夫著
天夢人発行、山と渓谷社発売
1500円(税別)